愛と心情-真のお父様が今伝えたいこと

神様の心情を訪ねて・・・。

真の家庭・家庭連合分裂の邪悪なモデルパターンは母国日本の歴史に秘められている!

8月10日記事重要部分


「メシヤを迎える為の基台」を彷彿とさせる十七条憲法は、聖徳太子によって604年に作られましたが、聖徳太子は「メシヤを迎える為の基台」としての和を実現するために、『法華経』『勝鬘経』『維摩経』の三経を選んだのです。


十七条憲法の中で最も強く謳われたのは、最初に掲げられた「和をもって尊しとなす」と言う項目でした。和をもたらすために重要なことは、神様の願いにかなう母性の伝統を作ることでありました。生命を誕生させることは神の領域であり、サタンには決してできないことです。人間の生命が生まれたその瞬間から、サタンはその人間を奪おうと働きかけてきます。自分のことよりも他者を思う人間になるのか、自分の欲望を先立てる人間になるのか・・・。もはや母の胎内にいる段階から、サタンは母を取り巻く恨み多い環境を作り出し、憎しみを母にも子にも注入しようとしてくるのです。


だからこそ、世の中に「和」をもたらす女性への真の教えを広めることが重要な意味をもち、後代に受け継がれることが必要になるのです。聖徳太子は、推古天皇に仏教の本質を理解してもらおうと試みます。推古十四年(604年)、女性である推古天皇に勝鬘経を講義するのです。勝鬘経の主人公は、インド北部にあった大国コーサラの国王の娘で、隣国の王妃となった勝鬘(シリーマーラー)夫人です。彼女が釈尊の面前で大乗の教えを開陳すると、釈尊は賞賛の言辞を挟み、その通りだと是認されるという筋書きになっています。それは彼女が大乗仏教のすぐれた実践者であることの証しそのものでした。つまり勝鬘経とは、仏の心を目覚めさせた女としての心得をさとしながら、すべての人間が仏になる可能性を認めている経文なのです。なぜ女の心得なのか。


それは人間に仏心・・・、正しく言えば神性と言う事になりますが、霊性が高められていくためには、母の胎内に宿されたときから注がれ続ける母性愛が重要なのです。その心の土台がなければ、どんなに厳しい修行を行おうとも、仏心及び神性を帯びて発揮される犠牲的愛を実践することは難しいのです。


つまり神様は、女性の母性愛を仏教の教えにより啓発させ、天の使命を受けるにふさわしい器を持つ男たちを、この日本に誕生させようとしたのです。サタンは男の権力欲に直接働きかけて分裂させ、恨みと憎しみの渦巻く世の中に貶めようとします。神様は人間の心の根っこから、サタンが働く要素を取り除こうとするのです。推古天皇が聖徳太子の期待通りに教えを受け止め、天皇家の伝統とするか、すべての女性の教えとして広めようとしていたならば、サタンの勢力は大きく後退するはずでした。サタンの攻勢が続いていた日本の歴史に、神様は聖徳太子を通じて心情的基盤を作り、神様が攻勢に出る基点を立てようとしたのです。


この神様が日本に期待した母性に支えられた天皇の権威を、血統によって奪おうとする者が現れるのです。紛れもなく、それはサタンの手足となって動く者どもです。


真のお父様は聖和される前年の2011年1月の朝の訓読会で、「日本の歴史を紐解きなさい」と語られました。お父様はその時期に、何故にこのような象徴的なみ言を語られたのでしょうか。


神様の正統な権威を奪おうとしたサタンの謀略が、日本の歴史には秘められているからです。 


  *****


歴史上初の女性天皇である推古天皇を、聖徳太子は勝鬘経の教えにより仏心(神性)を啓発し、真の母性に目覚めさせようとしました。しかし、聖徳太子は、日本民族の心情の母胎となる、母性の伝統を立てることができませんでした。推古天皇は私的な欲望を捨てられないまま、自分を天皇に立ててくれた蘇我馬子と仲たがいしていくようになります。蘇我馬子も同様に、権力への執着から抜けられないままでした。本来の神様の願いは、推古天皇と蘇我馬子が一体となり、聖徳太子を天皇とした後に、聖徳太子の息子・山背大兄王が天皇を受け継ぐ為の土台作りをしなければなりませんでした。


経緯を説明すると長くなるので、事象の結論だけを記述して行きます。推古天皇と蘇我馬子の一体化を実現できなかった聖徳太子は、神様とサタンの前に条件を失い、622年4月8日に49歳で病没することになります。


その後、626年に蘇我馬子が死去し、推古天皇は628年4月15日、75歳で崩御しました。その後に馬子の息子・蝦夷が権力を握るもとで、推古天皇の兄である30代敏達天皇の孫・田村皇子と、聖徳太子の息子・山背大兄王の間で皇位継承の争いが起きました。この争いに敗れた山背大兄王は、朝廷から退けられました。


その後、蝦夷から権力を受け継いだ息子・蘇我入鹿は、多くの人々から政治を行う事を望まれる山背大兄王を抹殺する事を決意します。入鹿は35代皇極天皇の弟・軽皇子に命じ、有力豪族を結集させ、山背大兄王を斑鳩宮に追い詰め取り囲みました。山背大兄王は「我が身を入鹿に賜う。」と言う言葉を残して一族とともに自害するのです。


この事件の影で、入鹿と軽皇子を操った人物がいたと言われています。中臣鎌足は当時、軽皇子の政治顧問でありましたが、まだ無名と言える存在でした。その無名の青年・鎌足が山背大兄王暗殺の後に、入鹿より神祗伯に抜擢されるのです。山背大兄王の暗殺にあたって大きな働きをしたと推測され、入鹿と軽皇子を操ったとさえ言われています。


中臣鎌足は神祗伯への大抜擢を断り、その後、中大兄皇子を動かし、独裁者・蘇我入鹿を殺害させました。蘇我入鹿を亡き者とした鎌足は、山背大兄王暗殺の功績者・軽皇子を36代孝徳天皇とするのです。中臣鎌足は天皇の影になり、その権力を握りました。


聖徳太子の「和の思想」、つまり「メシヤを迎える為の基台」を継承する山背大兄王とその一族の抹殺により、神様の日本への望みは断ち切れてしまうことになります。


中臣鎌足は、後に朝廷から藤原の姓を賜り、藤原一族として繁栄を見ることになります。藤原氏が権力を握るために行った事は、藤原の娘を天皇の妻とする事でした。そうして生まれた息子を天皇に即位させるのです。天皇が幼少時や病気、女性の場合に政治を行う人を摂政といいます。天皇が成人後も代わりに政治を行う人を関白といいます。この摂関政治は、866年藤原北家の藤原良房が人臣として初めて摂政に任命されて始まります。


この摂関政治の原形は、藤原鎌足の息子・不比等が作っていたものです。不比等は天皇になる皇子以外は、皇族を下りて臣下とならざるを得なくなる制度を作っていました。その皇子たちが地方の豪族と結びつき、源氏や平家などの武士となっていくのです。藤原氏も源氏も平家も天皇も、聖徳太子一族が滅んで以降、サタンに操られ、一時期は権力を握っても、必ず滅びの道に落ちて行くようになるのです。


摂関政治により、藤原家の陰謀の血統が天皇家に注入されて行きます。その陰謀の血統の結実として誕生した天皇こそ、藤原家を外戚としていない後三条天皇です。後三条天皇は藤原氏を外戚にしていないのですが、その父である御朱雀天皇の母が藤原彰子であり、母・禎子内親王の母が藤原妍子です。つまり、サタン勢力が皇室に送り込んだ母性の血統から生まれた結実の男性こそ、後三条天皇と言うことになるのです。それはサタンの欲望と野望が、藤原氏の女性を通して皇室に入り込んだと言うことになり、聖徳太子の思想とは、まったく逆転した邪悪な結果があらわれるのです。


この後三条天皇の息子が白河天皇となり、藤原氏を抑え親政を行った後、上皇として政治をとり、ここに院政が始まったのです。これまで天皇の母系の尊属にあった政権(摂関政治)が、天皇の父系の尊属の政権(院政)に変わりました。それは政治的陰謀から、武力で抑える歴史への大きな転換を意味したのです。1086年に白河上皇が院政を開始します。五百年前の紀元593年、聖徳太子が和の思想をよりどころとしたのとは逆に、白河上皇は源氏・平氏の武士団を抱え権力の絶対化を進めました。武力による支配は、サタンの思うがままに、欲と恨みの渦巻く世の中のはじまりとなったのです。母国日本の心情育成の道筋が、断たれてしまったかのように歴史は進んでいきます。




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