愛と心情-真のお父様が今伝えたいこと

神様の心情を訪ねて・・・。

夜の神様と真のお父様から受け取っている最高のプレゼントを誰も開けようとしない!

先回記事末部より


四大心情圏についてのみ言において、最も理解するべきところは次の部分です。


「神様自体がずーっと成長してきた内容を中心に、それをさらに展開しようとするのです。」


「結局、神様の見えない実体がアダムとエバによって展開されるのです。そうすると、神様の無形実体内で、神様自体も一遍に大きくなったのではないのです。だんだんだんだんと大きくなってきたというのです。一遍に大きくなったということになれば、それは大変なことになるのです。すべてのものは、小さいものからだんだんと大きくなるのです。」


神様も小さいものから、だんだんと大きくなったと語られています。それでは、何が大きくなる発端となったのかという事です。神様を大きくした原点にあるものを、神様は人間にも備えさせてあげたいと思うのは当然な事であり、自然な事でしょう。


その原点にあるものとは、神様の誕生日の出来事であり、神様はその誕生の前から存在していたのですから、神様も重生したという事になります。私たち堕落人間にとっての重生とは違い、愛の前に純粋な、無から永遠への誕生と言えます。


  *****


神様の誕生日の出来事を、私は2003年8月2日に神様によって教えていただきました。神様の啓示は言葉で来るのではありません。心情そのものが、なだれ落ちてくる滝のように注がれてきます。まだまだ鈍い私は、言葉として、文章として表現できるまで時間がかかります。この時、表現できるようになったのは、四カ月後の11月になってからでした。その啓示を与えられた出来事を、私のもう一つのブログ「聖霊のもとに―メシヤの涙」で二回に渡って掲載しています。その記事を、ここに引用します。


① 神様の創造の原点となった「かなしみ」に包み込まれ、師としての神様と出会った日!


統一教会におけるアベルカイン関係、つまり兄弟姉妹の関係が、真のお父様が教えて下さっているものとは違うと気付き、環古郷の摂理をきっかけに教会の公務を辞めました。このままでは統一教会が滅ぶ時が来ると感じ、一人でその為の対策を考えました。


すでにその頃には、一人一人の生涯路程を紐解いたことから、一人一人に対して蕩減復帰の環境を準備して下さる神様が、二十年周期の同時性をもって働いていることに気付いていました。そこで、人々の心情によって綴られる国の歴史にも必ず、蕩減復帰のための同時性が現れると信じ、日本史を研究学習していました。


山形に帰って、教会から遠ざかり、原理的な日本史研究に没頭しながらも、歴史を同時性によって動かす原動力となっているものが掴めないままでいた2003年のことです。それを理解したいと、必死に祈り続け、求め続け、神様に問い続けていたのでした。


2003年8月2日に、私は出羽三山の一つである月山に登りました。生まれ変わりの山と言われる月山です。その時に書いた日記から引用します。


  **引用開始**


8月2日(土)


月山の中腹まで車で登る。さらにリフトで登って、そこから3.9キロを徒歩で登る。標高1,984mの頂上を目指す。急な斜面の石段を踏みしめ登っていると、シュルルルーと音が響いてきて、そのほうに目をやる。ランニング姿のスキーヤーが急斜面を滑り降りていた。下界は30度の夏の暑さにむせ返っているのに、ここではまだ、ところどころに雪が残っているのだ。滑り降りていく先のほうに目をやると、山の緩やかな稜線が、折り重なりながら眼下に広がっていた。はるか下方に、荷物を置いてきたロッジが見える。ふもとから蛇行して登ってくる道筋に、出羽三山神社巡礼の人たちの小さな白装束の姿が、点々と連なっている。


雪面からは、まるでドライアイスのように靄がわき上がっている。石段を登って雪面を越えると、そこには高山植物が一面に群生していて、白、黄、紫、水色などの花々が咲き誇っていた。思わず涙が出そうになる。


と思うと、山上のほうから白い靄が迫ってきて、あたり一面を白いベールで包んだ。もう、50メートル先の風景が白い靄の中に消えてしまっている。頂上に差し掛かると、急峻な斜面となった。30メートルほど登ると息が切れて一休みする。その繰り返しで、ようやく頂上に着いた。そこで、久しぶりに詩を書いた。


  **引用終了**


詩を書いたとありますが、それは、神様の創造の原点となった「たった一人でいることのかなしみ」に出会った体験を表現した詩でした。


   かなしみが おちてくる


   たった ひとり という そんざいの とうとさに
   めざめた たましいの おおぞらの いただきで
   かみさまの かたに しとやかに ふりかかる


   かなしみが おちてくる


たったこれだけの詩です。この詩の意味を、言葉で説明できるようになったのは4カ月後の11月になってからでした。


この詩で表現された「かなしみ」は、神様の創造の出発点であり、その結実が天一国の核となって顕現するようになるのです。


②「光あれ!」と叫ばれた神様に取っての光!


その三カ月後の11月、再び月山に登った日に、神様の「かなしみ」と出会った体験が言葉となり、文章となりました。


  ***


「無」そして「ゼロ」・・・・・、実際には存在しない。人間が思考の上でつくり出した観念だ。しかし、すべての存在の基本だ。神は自分の存在様相に似せて、この物質世界を創造した。それは、陽と陰、プラスとマイナス、ただそれだけの言葉や記号で表現されるものではないが、私たちの存在する次元からは、このように表現するしかないだろう。まったく正反対のものが、陽と陰と表現すれば無の境地を機軸として結ばれ合い、プラスとマイナスと表現すればゼロの境地で一体となり和合し、ひとつの完全な存在となった。「無」を「根本」として「有」は浮かび上がってくるが、実際に「無」は存在しない。「有って有るもの」それは神である。「無」の境地に有るもの・・・・・、それが愛だった。愛こそが自己という存在を無の境地にいざなう。それが、愛であるがゆえに、思いがあり、思いは力と成り心情となる。そこに、無限の存在力が生まれてくるのだ。神は絶対無私の境地で、無限の自存力を備えていた。


有って有る神は完全であり、不可欠なものは何もなかった。そこにはまだ、「かなしみ」の入り込む余地は皆無だった。


「無」を「有」に変えるものは愛の力だ。ゼロをプラスにするためには、そこにマイナスが生じる。無に陽を浮かび上がらせれば、そこに陰が影を引く。この正反対の性質のものを結び合わせる力がなければ、存在は浮かび上がってこない。まったく正反対のものが結ばれ合い、一体となり和合し、ひとつの完全な存在となった。その結び合う力の源こそ、神が神である由縁であり、愛の源泉である。神の愛は、自分の存在を完全に無にして、まったく反対の立場にある相手を完全に受け入れる。そこに、お互いの持つ力が増幅し続ける作用が生じ、和合しあう喜びの衝動が湧き起こり続ける。つまり神は神のみの存在でも、全知全能の完全者として、喜びの境地で存在していた。和合によって存在している無の状態には、無限の平安があったのだ。


「続ける」ということで、時間と空間に制約された三次元で生きる私たちの感覚からすれば、時間性があるように感じられるが、実際のところ時間には拘束されていない。私たちが理解できる表現として、このように書くしかない。この喜びの衝動が増幅しながら湧き続ける過程で、神は全知全能たる由縁として、飛躍的な喜びの増幅作用を発明した。それが、「実感する」ということだ。私たちは実感する世界に生まれ生きているので、情を実感するということが当然のこととして生きている。しかし、実感する世界を初めて発想した神にとって、それは驚異的な飛躍であり、絶対者としての権能をも、完全者として感じていた喜びをも、捨て去って余りあるものであった。


自体内で愛の和合作用が喜びを増幅させていても、それは実感とはならない。自らに等しい愛を、互いに交わすことのできる他の存在者の創造という発想が生まれた。


神が、愛の実感を分かち合う相手として人間を誕生させたのは、神のみでの存在が淋しかったからではない。神は全知全能の立場で、喜びに満ち溢れていた。飛躍的な喜びの増幅作用としての、愛を実感する世界の創造を思い立った。


するとなんということだろうか!いままで和合の境地であった無の状態が、恐ろしいほどの孤独な暗黒となって包み込んでくるのだ。ただの暗黒ではなく、その暗黒には純粋な心情が満ち溢れていて、空間に空気と光が満ち溢れるように、無限に透明な青が包み込んでくるのだ。それは暗黒の恐怖ではなく、真っ青で純粋な「かなしみ」だった。愛する対象としての存在が発想されると、そこに初めて一人ぽっちの自分が浮かび上がる。孤高の無の状態が、無限大に拡大して迫りくるので、愛する対象を求める心情が矢も楯もたまらなく湧き上がってくる。


神はその時、愛することの喜びに心底から感激した。それまで、自体内で交流し、喜びとなっていた自らの愛の次元が、とてつもなく小さく見えた。本当にその時のことだ。その頭上の遥かなる蒼天(そうてん)から、神が初めて体験する情感が舞い降りてきた。「かなしみ」である。現在の私たちが体験しているような、悪い出来事や苦悩を感じての悲しみとは次元が違う。自体内に充満していた愛が溢れ出し、愛したくて、愛したくてたまらない、だが、愛を注ぐ相手がまだいない。爆発しそうな切なさに、神は心底わなないた。


その愛したくてたまらない心情が、創造の動機となった。それは神さまにとっての光だった。「光あれ!」と叫ばれたのだ!


  ***


真のお父様によって「夜の神様、昼の神様」が語られ、亨進様がその意味するところを解説し公表される8年前に、私はこの文章を書いていました。


夜の神様が、愛を発動させる心情の動機がここにあります。そこで神様は、自分は愛から生まれたと実感するのです。


**天聖経 真の神様 第一章 神様の本体から引用**


五 法度の中での全知全能である 2.愛のみが絶対基準である
神様自身を存在させる起源とは何ですか。何から生まれたのでしょうか。
神様が存在するための起源とは何でしょうか。全知全能ですか。絶対的権限ですか。絶対的権限があれば何をするのですか。一人でいるのに、一人でいる両班(ヤンバン)が絶対的権限があって何をするのですか。誰もいないのに。一人で絶対者になっていれば知識があって何をするのですか。神様の本質が何かという問題が重要な問題です。それが愛です。「ため」になれという愛ではなく、「ため」になろうとする愛です。


  **引用終了**


神様は愛から生まれた自分の体験を、そのまま息子娘としての人間にも同じ体験をさせようとしたのです。神様はご自身を存在せている愛から生まれました。ですから、女性の胎は夜の神様を存在させている愛そのものをモデルとして造られました。


神様は絶対的な主体者ですが、愛する対象が創造されれば、主体でありながら愛において対象に立つ喜びも味わいます。私たち息子娘は、最初から対象として生まれることが出来るので、神様が愛から生まれ出た時に感じた「かなしみ」が無限大である分、神様と親の愛を無限大に実感して生まれることが出来るように造られたのです。私たち一人一人は、胎内から生まれ出る時に、神様が生まれた時と同じ体験をして生まれてくるのです。


神様が愛から生まれた出来事を知ることは、真のお父様が語られた「四大心情圏」を正しく理解するうえで、とても重要な事です。神様の誕生日を知ることは、「夜の神様、昼の神様」を理解する上でも重要です。真のお父様から私たちへの、最高のプレゼントとしてのみ言こそ、「夜の神様、昼の神様」なのです。


「夜の神様、昼の神様」のみ言を正しく理解していないとしたならば、真のお父様からの最高のプレゼントを、箱も開けずにただ腰掛にして尻の下に置いているのと同様です。



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