愛と心情-真のお父様が今伝えたいこと

神様の心情を訪ねて・・・。

真のお父様が生涯大事にしまって生きてきたという愛の宝物を公開しましょう!

先回記事末部より


胎児は母親とへその緒で繋がり、全ての栄養素を供給されています。そこから地上界に生まれ出ますが、その地上界は霊界に霊人体が生まれる為の、胎の役割をしているというのです。母親の胎内では地上界で生きるための肉体を準備するわけですが、胎のような役割をする宇宙では、へその緒の役割をするのは何なのかという事です。もちろん、霊界に生まれる霊人体を成長させるのですから、「生素」をどのように吸収するのかという事になります。そこで、真のお父様の次のみ言に真意を読み取れるようになるのです。


「全万物世界の最終の理想的な吸収の終着点がどこかといえば、男性と女性の生殖器だというのです。」 


最終の理想的な吸収の終着点とは、被造世界に現れた神様の愛を生素として吸収して行けば、夫婦互いの生殖器に結実するという事です。真の愛として結実するという事です。しかし、あくまでも万物、被造世界から来る「生素」は四大心情圏が成就されていく為の土台づくりと言えるものでしょう。


被造世界を構成する万物の存在させるための原子・分子においても同様です。全ての存在は、神様の愛の現れとしての働きであり、私たち一人一人と肉的五感・霊的五感によって授受作用している存在なのです。その自覚が無ければ、被造世界の象徴的個性真理体の全てが、神様の愛の現れとなっているその本質を、「生素」として吸収できていないという事です。


でも、その「生素」はまだ、人類始祖誕生以前においては、人間の最初の父母である物質世界に現れた、たった一人の孤独な神様から来る「生素」です。このことをまず頭に入れておいて、人類始祖が誕生して以降、アダムとエバと授受作用することによって、どのような「生素」に変わっていくのかを知らなければならないのです。


次回の記事で・・・。


  *****


「全万物世界の最終の理想的な吸収の終着点がどこかといえば、男性と女性の生殖器だというのです。」 


先回記事でこのみ言を取り上げていますが、全万物世界から生素を吸収している様子を、真のお父様は具体的に語られています。アダムとエバが誕生して以降の「生素」の変化についての記事の前に、これを取り上げておきます。


文鮮明自叙伝「平和を愛する世界人として」より抜粋引用します。


  **引用開始**


自叙伝から~第一章 草むらの虫と交わす宇宙の話(p50)


森の中にいれば心が澄んできます。木の葉がしきりにカサカサする音、風が葦を揺らす音、水場で鳴くカエルの鳴き声といった自然の音だけが聞こえ、何の雑念も生じません。そこで、心をがらんと開け、自然を全身で受け入れれば、自然と私は別々のものではなくなります。自然が私の中に入ってきて、私と完全に一つになるのです。自然と私の間の境界がなくなる瞬間、奥妙な喜びに包まれます。自然が私になり、私が自然になるのです。


私はそのような経験を生涯大事にしまって生きてきました。今も目を閉じれば、いつでも自然と一つになる状態が訪れます。ある人は無我の状態だとも言いますが、私を完全に開放したところに自然が入ってきてとどまるのですから、事実は無我を超えた状態です。その状態で、自然が話しかける音を聞くのです。松の木が出す音、草むらの虫が発する音……。そうやって私たちは友達になります。


私は、その村にどんな心性を持った人が住んでいるか、会ってみなくても知ることができます。村の野原に出て一晩過ごし、田畑で育つ穀物の言葉に耳を傾ければ、おのずと分かるようになります。穀物が嘆息するのか喜ぶのかを見れば、村人の人となりを知ることができるのです。


韓国と米国、さらには北朝鮮で何度か監獄に入っても、他の人のように寂しいとかつらいとか思わなかったのも、すべてその場所で風の音を聞くことができ、共に暮らす虫たちと会話を交わすことができたからです。


「虫たちと一体どんな話をするんだ!」と疑うこともできますが、ちっぽけな砂粒一つにも世の中の道理が入っており、空気中に浮かぶ埃一つにも広大無辺な宇宙の調和が入っています。私たちの周りに存在するすべてのものは、想像もできないほどの複合的な力が結びついて生まれているのです。また、その力は密接に連関して相互につながっています。大宇宙のあらゆる存在物は、一つとして神の心情の外で生まれたものはありません。木の葉一枚揺れることにも宇宙の息遣いが宿っています。


私は幼い頃から山や野原を飛び回って、自然の音と交感する貴重な能力を与えられました。自然はあらゆる要素が一つのハーモニーをなして、偉大で美しい音を作り出します。誰一人として排除したり無視したりせず、どんな人でも受け入れて調和をもたらします。自然は、私が困難にぶつかるたびに私を慰めてくれたし、絶望して倒れるたびに私を奮い立たせました。大都市に生きる最近の子供たちは自然と親しむ機会すらありませんが、感性を教え育むことは知識を養うことより重要です。自然を感じる心がなく、感性が乾いた子供であるならば、誰が教育したところで何が変わるでしょうか。せいぜい世間に広まった知識を積み上げて個人主義者になるだけです。そんな教育では、物質を崇拝する唯物論者ばかりを作り出すことになってしまいます。


春の雨はぽつぽつ降り、秋の雨はぱらぱら降る、その違いを感じることができなければなりません。自然との交感を楽しめる人であってこそ正しい人格が身に付くと言えます。道端に咲いたタンポポ一本が天下の黄金よりも貴いのです。自然を愛し、人を愛することのできる心を備えておくべきです。自然も、人も愛せない人は、神を愛することはできません。神が創造された万物は神ご自身を表す象徴的な存在であり、人は神に似た実体的な存在です。万物を愛することのできる人だけが神を愛することができます。


  **引用終了**


虫も鳥も魚も獣も、花も草も樹木も、風も光も全て・・・、さらに私の肉身も霊人体も、神様の霊によって造られており、神様の愛によって形を与えられています。生き物の体の一つ一つの細胞が、神様の愛に満ちていて、私の体の細胞と愛によって共鳴し合うのです。万物を形成する元素・分子・原子・素粒子まで、神様との授受作用によって球体運動をしており、私の肉体とも霊体とも共鳴し授受作用をするのです。


母親の胎内では羊水にひたり、へその緒一本で栄養を供給されます。「生素」は肉的五感においても、霊的五感においても感得するものであって、私の形象的個性真理体全体を使って吸収するものです。細胞で吸収し、分子で吸収し、原子で吸収し、素粒子で吸収し、霊人体を活動させている全ての要素で吸収します。


その状態こそ、神様の愛を中心として、自然と一体となった状況です。真のお父様は次のように表現されています。


「私はそのような経験を生涯大事にしまって生きてきました。今も目を閉じれば、いつでも自然と一つになる状態が訪れます。ある人は無我の状態だとも言いますが、私を完全に開放したところに自然が入ってきてとどまるのですから、事実は無我を超えた状態です。」


「私はそのような経験を生涯大事にしまって生きてきました。」と真のお父様は証しされています。心情の奥底にしまって生きてこられたのです。子女の愛・兄弟の愛・夫婦の愛・父母の愛の四大心情圏が芽吹いて成長する心情の土壌を、豊かに熟成させてこられたという事です。


その生き方をよ~く理解していただいてからの、アダムとエバの誕生後の、被造世界と神様の成長期間となっていくのです。



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