愛と心情-真のお父様が今伝えたいこと

神様の心情を訪ねて・・・。

シムソンに憤りを感じる幹部や講師は絶対読むべき「アベルカインの蕩減上にあった創造原理」!

先回記事掲載の質問部分から・・・。


「(一つから)夜の神様と昼の神様が分かれた」「夜昼の神様は結婚する」といったみ言からは「正分合作用」「四位基台」が説明されなければなりません。


これから書く記事は、すでにこのブログで公表している内容です。創造原理がそのごとくに自分の思考回路に身に付いていれば、わざわざ「正分合作用」「四位基台」という形で説明しなくても、書いてある内容を自分で分析しながら創造原理に合っていると判断し、違和感なく心に入ってくるものです。でも、創造原理の原点に立ち返って、誰もが分かるように説明するのがベストであることを教えられました。


まず、正分合作用・四位基台を解説している統一原理の創造原理が、どのような背景で書かれたのか。また、どこまで書き記すことができる条件が整っていたのか、というところから書き始めて行きます。


原理講論では、目に見えない神様の神性を知るために、その作品である被造世界の共通事実から推し量ろうとします。「創造原理 第一節 神の二性性相と被造世界(一)神の二性性相」より抜粋引用します。


**抜粋引用開始**


あたかもすべての作品は、その作者の見えない性稟の実体的展開であるように、被造世界の森羅万象は、それを創造し給うた神の見えない神性の、その実体対象として展開されたものなのである。それゆえ、作品を見てその作者の性稟を知ることができるように、この被造万物を見ることによって神の神性を知ることができるのである。


今我々は、神の神性を知るために、被造世界に普遍的に潜んでいる共通の事実を探ってみることにしよう。


**抜粋引用終了**


すでに造られた結果としての被造世界から、原因となった根源である神様の様相を探ってみれば、男性として、また女性としての性質も神様は持ち合わせていたという事になるのは当然のことです。


さらにまた、原理講論では、神様が愛する対象としての人間を創造した理由として、旧約聖書の「見て良しとされた」という聖句を根拠に、人間が愛し合う姿を見て喜ぶためだとしています。男女が愛し合い父母になり、産み増えた人類が愛し合う姿を見て喜ぶために被造世界を造ったとしたなら、神様の本陽性をそのまま男性性相と捉えても支障はありません。同様に本陰性を、そのまま女性性相と捉えても、神様と被造物である男女の関係性に支障はでません。


それゆえに、神が被造世界を創造なさった目的は、人間をはじめ、すべての被造物が、神を中心として四位基台を完成し、三大祝福のみ言を成就して、天国をつくることにより、善の目的が完成されたのを見て、喜び、楽しまれるところにあったのである【(一) 被造世界を創造された目的)】


よく考えてみて下さい。このように、最初から神様本体に男性性相と女性性相があり、一体となっていたという理論が成り立てば、どうどうと、神様は天の父母様だと主張してかまわないのです。見て喜んで満足してしまう愛の喜びに対して控えめな神様であれば、神様本体をそのまま男性性相の実体として造られたアダムと、女性性相の実体として造られたエバが愛し合い初夜を迎え、性交渉が為されたとしても共に喜んで見ていられるでしょう。


しかし、天聖経には「見て喜ぶため」だとは出てきません。アダムとエバを創造したのは、「体を着るため」だと記されているのです。


「神様はなぜアダムとエバを造られたのでしょうか。神様は無形でいらっしゃる方なので、実体の形状をもった父母になれなければ形状の子女を愛することができないので、体を着るためなのです。アダムとエバの創造目的は第一に、アダムの体を無形の神様が着ることであり、二番目は、体を着ることによって震動的な衝撃が来るようにするためです。言葉だけでは駄目なのです。この衝動的な刺激に喜びを感じるのです。三つ目は、神様は中心軸をもった垂直の父で面積がないので、面をもとうということです。」(二 無形の神様は体が必要)


天聖経には、アダムの体を「無形の神様が着るため」だとあります。エバの体を着るとは書いてありません。しかし、アダムとエバの両者の体を着るとしたら、二人が性交渉するということが、どれほど滑稽な姿となるでしょうか。アダムとエバの生心に、同じように神様が臨在するとすれば、神様は自分自身と性交渉をすることになり、自慰行為によって喜ぶために被造世界を創造したことになってしまいます。


この事に関して「見て喜ぶ」と記した「原理講論」と、「体を着る」と記した「天聖経」には、とてつもない違いがあります。ところが、私たちは疑問に感じる事も無く過ごして来たのです。


この疑問に、真のお父様が回答を下さったみ言こそ、「夜の神様、昼の神様」に関する内容です。この「夜の神様、昼の神様」を、亨進様が世界会長だった時に、私たちが理解できるみ言で表現してくださいました。


そこで、亨進様は次のように語られました。


「『夜の神様』は、超越的な神様として全ての万物と時空間が創造される前の『無』の状態、夜の暗闇の状態での見えない神様であり、『有』の状態、時空間の創造後の歴史が始まった後の動きの神様、摂理の神様と呼べるその存在が即ち『昼の神様』です。」
「お父様は私たちに、ご自身と私たちの違いについて問われ、『私は夜の神様の管理を受け、お前たちは昼の神様の管理を受けているのだ。』と説明してくださいました。お父様は存在論的に、キリストと私たちの違いを非常に明確に決定し、発表されるフィナーレをしてくださったのです。」
「私たちは原理を通して『メシヤは人間である』という教えを受けてきましたが、私たちはこれを、歴史に現れたイエス様を、神性と人性を共に持った存在として研究するキリスト論を通して見てみると、『キリストは100%神であると同時に100%人間』なのです。」


真のお父様が何故に、2008年になって、本格的に「夜の神様、昼の神様」を語れるようになったかと言えば、亨進様と国進様により統一教会の摂理上、はじめてアベルカインの一体化による蕩減復帰が成されたからです。真のお父様が「真の父母」の位置にようやく立てるようになり、再臨主としての真の姿を公表できるようになったからです。私たち祝福家庭の次元では、心情一体化と常に掲げながら、神様が本来願うようなアベルカイン一体化は出来ていなかったのです。アベルが真のお父様の代身とふれ廻り、支配的な逆三角形のピラミッド組織を造り上げ、神様を中心としては「メシヤを迎える為の基台」が立てれなかったという事です。


ですから、それまでの真のお父様は、私たちがどんなに真のお父様と呼んで慕っていたとしても、アベルの位置で向き合わざるを得なかったのです。お父様を、ただの呼称として呼んでいたという事です。なので、原理では「メシヤは人間である」としか主張できませんでした。ですから、それまでの摂理的勝利は、全て条件付きで「成就した」とされて来ていたということになります。


それははっきり、真の父母様の過ちでもなく、真の家庭の子女様方の過ちでもなく、全て私たち祝福家庭、天使長家庭がアベルカインを蕩減復帰できなかったが故の失敗です。その事に、一人一人が気付かなければ、神様と真のお父様のもとに一つになることなどできないのです。


亨進様と国進様がカインアベル一体化に勝利され、真のお父様ははじめて、自らの生心に神様が臨在している三位一体の100%神様、100%人間の存在だと証しできるようになったのです。神様が真のお父様の体を着ている事を証しできるようになったのです。


「夜の神様、昼の神様」のみ言により、創造前の神様本体と、創造後の昼の神様を明確に分けていただきました。そして、昼の神様は「動きの神様」「摂理の神様」と語られています。昼の神様は「動き」であり「摂理」とあります。つまり、神様の目的を実現する為の働きであり、「神の霊」そのものであるのです。


真のお父様は、夜の神様について次のように語っていました。


「夜の中にいた神様の歴史が創造以前の歴史であることを分からなければならない。その夜の歴史の中にいた神様の歴史、創造の前の歴史・・・神様も大きくて出たという事実が分からなければならない。暗闇の中輝いた。7色光を合わせれば黒になる。その創造以前世界の神様が分からなければならない。元々の根本が分からなければならない。」(2010年4日1日 ワシントンシェラトンホテル訓読会)


光を照り返す対象がある被造世界では、7色光は白色であり透明とも言えます。それぞれの物質は、その光が反射した光の波長の違いによって、千変万化の色彩で自然界に浮かび上がるのです。そうであるならば、『七色光を合わせて黒』になる世界には、光を反射させる対象が何もないということになります。完全無なのです。それもただの無ではありません。プラスとマイナスが一体となったゼロであり、本陽性と本陰性が完全中和した「無」です。本性相と本形状が完全一体となり、全ての知・情・意の要素が和合した『無の境地』なのです。


ここで光と表現されているのは、夜の神様にとっては心情のことです。永遠普遍に心情が満ちている状態ですが、その心情に相対する存在が無いので、暗闇の状態なのです。何も無いのではなく、存在自体によって湧き上がる心情が満ち溢れていました。それだけでも、全てが和合している喜びがありました。


しかし、自らを完全和合させている二性性相の授受作用が、神様の根本である心情を通して、自らを存在させている愛だと悟った時、自分は愛から生まれたと実感するのです。


夜の神様が愛する対象を得たいと願った時、構想を探ったその時点から、対象への愛は心情の衝動的爆発を呼び起こしたのです。そして、夜の神様は「無」の状態から、愛の生命を得たことを実感したのです。


**天聖経 真の神様 第一章 神様の本体から引用**


五 法度の中での全知全能である 2.愛のみが絶対基準である
神様自身を存在させる起源とは何ですか。何から生まれたのでしょうか。神様が存在するための起源とは何でしょうか。全知全能ですか。絶対的権限ですか。絶対的権限があれば何をするのですか。一人でいるのに、一人でいる両班(ヤンバン)が絶対的権限があって何をするのですか。誰もいないのに。一人で絶対者になっていれば知識があって何をするのですか。神様の本質が何かという問題が重要な問題です。それが愛です。「ため」になれという愛ではなく、「ため」になろうとする愛です。


  **引用終了**


夜の神様は、相対する対象を想定することによって、愛が自らに新たな生命を与えてくれたことを実感しました。その時点から、何の苦労もなく、自分の似姿に人間を造れた訳では無いのです。愛から生まれたその喜びを、愛する対象に同じように実感する方法を構築する過程が『千辛万苦』であったと、お父様は語られているのです。


四 神様は父であられる 1.神様と人間は父子の関係から引用
『神様は完全に投入して愛の対象を創造しました。そのようにしたのは神様も愛の対象が必要だったからです。ところが愛は一人ではできません。どんなに絶対者であっても、その絶対者の前に愛の対象がいてこそ愛することができるので、その愛の対象として人間を造りました。それで人間を造るとき、いい加減に造ったのではありません。聖書にみ言で造ったとありますが、いい加減ではありませんでした。千辛万苦を経て、自分の120パーセント、何百倍を投入して造ったのです。』


愛の理想世界の創建に向けて構想が完成するまで、どれほどの思考を積み重ね悶絶されたことでしょうか。その過程を経て構築された愛の理想世界こそ、真の父母様を中心とした四大心情圏三大王権から展開する天一国なのです。


神様が愛から生まれたという実感を、愛する対象として生まれる人間に、同様の体験ができる環境を造るために、神様は親子の生命システムによる四大心情圏三大王権を構想したのです。


創造前の神様の御姿が浮かび上がったことから、神様本体が目的を持つことによって始まる、正分合作用について説明できる土台が出来ました。


それでは次回より、創造原理を愛し研究された李相軒先生の書かれた「統一思想」から、「性相と形状の授受作用」と「正分合作用」ついて学びながら解説して行きます。


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