愛と心情-真のお父様が今伝えたいこと

神様の心情を訪ねて・・・。

あっと驚く「天の父母様」の極意!正しい真の御父母様の位相に目覚めよう!

先回記事末部より


原理講論のキリスト論に、次の重要な一節があります。


第四節 重生論と三位一体論
三位一体論は、今日に至るまで、神学界で一番解決が難しい問題の中の一つとして論じられてきた。そして、だれもがよく分かっているようで、実際には、その根本的な意味を知らないままに過ぎてきた問題の中の一つが、すなわち本項で扱う重生論である。


「三位一体論の根本的な意味を知らないまま過ぎてきた」と記されています。三位一体論が理解されなければ、重生についても、うやむやなものになってしまうのです。この三位一体論を究極的に整理して、神様の愛の本質を浮かび上がらせるみ言こそ、「夜の神様、昼の神様」のみ言なのです。


「夜の神様、昼の神様」のみ言の中でも、「真のお父様が夜の神様の管理を受ける」の本質的核心を捉えることにより、真の重生の役事が行われるようになるのです。


それが現れたところこそ、真のお父様が居られる本物の所であり、天一国が現出するところとなるでしょう。


  *****


原理講論は三位一体論を「神学界で一番解決が難しい問題」と前置きをしながら、あたかも結論が出たかのような表現で次のように説明しています。


  **引用開始**


二)三位一体論
創造原理によれば、正分合作用により、三対象目的を達成した四位基台の基盤なくしては、神の創造目的は完成されないことになっている。したがって、その目的を達成するためには、イエスと聖霊も、神の二性性相から実体的に分立された対象として立って、お互いに授受作用をして合性一体化することにより、神を中心とする四位基台をつくらなければならない。このとき、イエスと聖霊は、神を中心として一体となるのであるが、これがすなわち三位一体なのである。


元来、神がアダムとエバを創造された目的は、彼らを人類の真の父母に立て、合性一体化させて、神を中心とした四位基台をつくり、三位一体をなさしめるところにあった。もし、彼らが堕落しないで完成し、神を中心として、真の父母としての三位一体をつくり、善の子女を生み殖やしたならば、彼らの子孫も、やはり、神を中心とする善の夫婦となって、各々三位一体をなしたはずである。したがって、神の三大祝福完成による地上天国は、そのとき、すでに完成されたはずであった。しかし、アダムとエバが堕落して、サタンを中心として四位基台を造成したので、サタンを中心とする三位一体となってしまった。ゆえに彼らの子孫もやはり、サタンを中心として三位一体を形成して、堕落した人間社会をつくってしまったのである。


それゆえ、神はイエスと聖霊を、後のアダムと後のエバとして立て、人類の真の父母として立たしめることにより、堕落人間を重生させて、彼らもまた、神を中心とする三位一体をなすようにしなければならないのである。


  **引用終了**


原理講論で説明される三位一体は、神様を中心として男性と女性が一体となることと表現されています。つまり神様の中の男性的性相と女性的性相が分立されて、合成一体化し、真の父母となると説明されています。神様の呼称を、天の父母様にすり替えた根拠が浮かび上がって来ざるを得ないものです。


1945年から出発したお父様の公式路程では、洗礼ヨハネ的使命者たちの背信により、お父様は「メシヤを迎える為の基台」を失いました。その為に、聖霊との相対基準を結ぶことができずに、母子協助を失ったアベルの位置から出発したのです。そのアベルの位置で創設した統一教会は、聖霊を失っていたのです。ですから、「夜の神様、昼の神様」のみ言による聖霊の正しい解釈を教えることができずに、信徒たちは聖霊の本来の働きと目的を理解できないまま、これまでに至ってしまいました。


ですから、原理講論が書かれている心情と霊性の次元というものを考慮して読まないと、本質が見えてこないのです。


原理講論には神様の創造目的について、「喜怒哀楽の感性を持つ人間を創造され、それを見て楽しもうとされた。」とあります。ところが天聖経の「真の家庭」第一章には「アダムとエバをつくったのは、ただながめる為ではありません。」と断言されています。
  
神様はアダムとエバが愛する様子を見て喜ぶだけではなく、アダムの手の感覚で愛の対象であるエバに触れ、体温を分かち合い、霊的にも心情的にも肉体的にも一体となることを願うのです。


**天聖経 真の神様 第一章神様の本体より引用**


神様はなぜアダムとエバを造られたのでしょうか。神様は無形でいらっしゃる方なので、実体の形状をもった父母になれなければ形状の子女を愛することができないので、体を着るためなのです。アダムとエバの創造目的は第一に、アダムの体を無形の神様が着ることであり、二番目は、体を着ることによって震動的な衝撃が来るようにするためです。言葉だけでは駄目なのです。この衝動的な刺激に喜びを感じるのです。三つ目は、神様は中心軸をもった垂直の父で面積がないので、面をもとうということです。(二 無形の神様は体が必要)


天聖経に記されている「体を着る」「アダムの体を神様が着る」というみ言の重要性が浮かび上がってきます。着るだけではなく、「振動的な衝撃が来るようにするためです。」と語られている本質の意味合いを、私たちはここで知らなければなりません。


創造前の神様の様相と、創造後の神様の様相の違いを理解しない限り、み言の正しい理解は無いのです。体恤することも出来ないのです。



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