愛と心情-真のお父様が今伝えたいこと

神様の心情を訪ねて・・・。

私たちは再臨協助の本質も、生心に神様が臨在される本質も何も理解していない裏切り者だった!

先回記事重要部分より


(farisuさんのシムソンに対する疑問)
最期に、
「真のお父様は夜の神様に管理を受ける」
という御言葉に対して、私の見解を述べます。
アダムはどうだったのでしょう?
イエス様は、どうだったんでしょう?
アダムは、無原罪の状態で生まれてきたので、生まれたときから、アダムの「生心」に神様が「臨在」していたでしょうか。
「個性完成」は、生まれたばかりで、実現されるでしょうか。


(シムソンの返答)
【個性完成して臨在するという状態になるのは、真のお父様以外の真のお母様を含む人類の事です。つまり、個性完成して昼の神様の顕現者となり、実体者と成るということです。真のお父様の場合は、生まれた時から無の状態の生心に臨在されて、真のお父様が実感される子女の愛を、夜の神様もともに実感して行くということです。このように、真のお父様の肉体と霊体の感覚器官を共有しながら、子女の愛、兄弟姉妹の愛、夫婦の愛、父母の愛を地上界で実感されて体恤していくのです。夜の神様は真のお父様と共に、心情において成長し完成していくのです。真のお父様が個性完成してから、その生心に夜の神様が臨在されたら、子女の愛はどのようにして実感しますか?】
【さらに説明を加えれば、真のお父様自身も昼の神様の実体者です。夜の神様の神格と真のお父様の人格は、独立して存在します。夜の神様は真のお父様の感覚器官を共有されていますが、お父様の意志や心情に干渉するということはありません。そして真のお父様も昼の神様の実体者となるわけですから、成長期間・未完成期間があります。夜の神様の意志と心情は、真のお父様の意志や心情と直結しているわけでは無いのです。真のお父様が昼の神様の実体者として完成したとしても、直結するわけでは無いのです。ですから、未完成期間のアダムには「戒め」が必要であったのです。夜の神様と真のお父様と聖霊の、三位一体の関係を次回の記事で説明しますが、それが理解できれば明確になります。】


  *****


シムソンが「真のお父様がお生まれになられた時から、その生心に夜の神様が臨在されている」と主張したことに、farisuさんはその主張は間違いだと判断されました。これまで学んだ原理観からは、当然のことです。


原理講論とは、そもそも何について書かれた教えなのかということです。結論から言えば、夜の神様が愛し合える対象を創造するために、昼の神様に組み込んだ創造原理について書かれた本ということになります。その愛する対象となるはずだった人類始祖が堕落することによって、堕落論を解き明かさなければならなくなり、その堕落した人間を救うための復帰原理が現れました。


原理講論とは、夜の神様・・・つまり神様本体に思いを馳せることも出来なかった著作となっているのです。再臨主を受け入れるべき、二千年のキリスト教歴史を背負って立った洗礼ヨハネの使命を持つ者たちが背信しました。故に、真のお父様はメシヤの位置に立てなくなり、アベルの立場となったのです。つまり、真のお父様は二千年かけて造成されていた「霊的真の父母を迎える為の基台」を失ったのです。つまり、霊的真の母である、聖霊の協助を失ったのです。でも、失ったと表現することは正しくありません。


夜の神様と真のお父様と聖霊は、三位一体となっていますが、「メシヤを迎える為の基台」が無ければ、サタン圏内で働くことが出来ないのです。キリスト教が再臨主に背信したので、世界はすべて、サタンの主管するサタン圏となったのです。そこにたった一人で、アベルの位置に降りたお父様に思いを馳せてみてください。興南収容所の肉的霊的両面の地獄の中から、天一国創建を目指して、たった一人となった真のお父様が、夜の神様を慰めながら出発された心情に、自分の心情を重ね合わせてください。


その興南収容所の地獄圏から復帰した十二人の弟子は、二千年のキリスト教歴史を復帰した弟子だったでしょうか。違います。そうではありません。二千年キリスト教歴史を完全復帰したアベルカインが、「メシヤを迎える為の基台」を造成しなければ、真のお父様は真の意味での再臨主の位置に立てないのです。その完全復帰の為の、夜の神様と真のお父様の闘いこそ「夜の神様と昼の神様を解放するための闘い」であったことを知らなければならないのです。その闘いの勝利的終結を伝える為のみ言こそ、「夜の神様、昼の神様」のみ言なのです。


その闘いが、夜の神様と真のお父様においては、完全勝利されているので、すべてを明らかにできる時代が開かれているのです。


「夜の神様と真のお父様と聖霊の、三位一体の関係を次回の記事で説明します」


と先回記事に書きながら、その前置きの記事になっています。


(farisuさんのシムソンに対する疑問)
「アダムは、無原罪の状態で生まれてきたので、生まれたときから、アダムの『生心』に神様が『臨在』していたでしょうか。『個性完成』は、生まれたばかりで、実現されるでしょうか。」


実は、このブログのこれまでの一連の記述は、この疑問に答えるための内容になっていたと言えるのです。最初の記事から読んで、その内容を理解していれば、これからの記事で答えが明らかになることは推測できるはずのものです。しかし、ひとつひとつの記事を理解すること自体が大変な事なので、この疑問を持っていただいたこと、質問をいただいた事には、心から感謝しています。


2月16日の記事に次の内容を書いています。


  **引用開始**


真のお父様を再臨主として信じている私たちには、救いに預かろうとする数えきれない霊人たちが、再臨協助していることは疑いもない事です。なぜ、霊人たちが協助するかと言えば、地上人を助けることによって、自らも罪を蕩減復帰して救われ、成長しようとするからです。そして、その蕩減復帰と霊体の成長は、肉身を持ってしかできないからです。


  (略)


ここで説明しておきたいのは、霊人たちが如何にして再臨協助し、どのような霊的機能を持って地上人の肉体と繋がるかということです。霊人は地上人の肉体をもって、過去の罪を蕩減復帰し、心情復帰していく事になるのですから、どのような関係性を持っているものなのか知らなければなりません。そこに、神様の本体との関係性を知ることのできるポイントがあるのです。


氏族メシヤ活動を行う食口たちに、清平役事により教育を受け原罪を贖われた霊人(絶対善霊)たちが再臨協助するようになるはずでした。過去の罪を蕩減復帰するとともに、地上の食口たちと共に成長し、四大心情圏を実感できるようにならなければなりません。心情を実感し体恤するためには、肉体が絶対必要であることは理解できると思います。


原理講論 第五章復活論 第二節 復活摂理 (一)復活摂理はいかになされるか
第三には、創造原理に照らしてみると、人間の霊人体は、肉身を基盤にしてのみ成長し完成するように創造されている。したがって、復帰摂理による霊人体の復活も、これまた地上の肉身生活を通じて、初めて成就されるようになっている。


それでは、霊界に入ってしまった霊人は、地上人の肉身にどのように繋がって愛の実感をともにするのでしょうか。


原理講論 第1章創造原理 第六節 人間を中心とする無形実体世界と有形実体世界
(三)肉身と霊人体との相対的関係(2)霊人体の構成とその機能
この霊人体は生心(主体)と霊体(対象)の二性性相からなっている。そして生心というのは、神が臨在される霊人体の中心部分をいうのである。霊人体は神からくる生素(陽性)と肉身からくる生力要素(陰性)の二つの要素が授受作用をする中で成長する。また霊人体は肉身から生力要素を受ける反面、逆に肉身に与える要素もあり、我々はこれを、生霊要素という。


再臨復活した霊人の霊体の成長は、肉身からくる生力要素無しには有り得ないということです。とすれば、地上人の霊体が肉体と密接に繋がっているように、再臨協助する霊人の霊体も、協助する地上人の肉体と繋がらなければならないのです。


  **引用終了**


私たちが肉体をもって実感した肉的五感の感覚は、霊体の生心に伝えられることによって心情を形成して行きます。その私たちに協助している霊たちも、私たちの肉体の肉的五感を共有しているということです。


でも、私たちが生きている感覚の中で、そのような協助霊が、肉体を共用しているという感覚を掴んだことがありますか?おびただしいほどの霊たちが、私の肉体の感覚器官に繋がっているのですが、そんなことはまったく感覚できないと思います。夜の神様と真のお父様の関係においても同様です。夜の神様が生心に臨在されていても、臨在されているという感覚など、欠片ほども無いということです。


それでは、どのような関係性をもって、真のお父様は夜の神様の存在を確認し、授受作用するのかということが問題になります。そこに、三位一体の本質があるのです。


それはまた、次回で・・・。



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