愛と心情-真のお父様が今伝えたいこと

神様の心情を訪ねて・・・。

これから永遠に続く天一国の心情生活と愛の営みを確立するために最も重要な事!

3月19日の記事「さらに天地を裂いて全食口に告げる!真のお父様について何も知らなかった事を受け止めて下さい!」に次の質問をいただいていました。アメーバブログでは常にコメントが入ると通知があり、すぐに返答することが出来たのですが、ムラゴンブログは通知が来ないので、数日たってから気付くことになってしまいました。


とても大切な質問でした。このブログ記事は、最初の記事からの連載なので、途中から読み始めると意味が掴めなくなってしまいます。「夜の神様、昼の神様」について理解する原点・基点となる質問ですので、記事において返答させていただきます。


  **質問**


学びの途中
2019/03/20 02:20
日々の学びへのご指導ありがとうございます。 質問なのですが、夜の神様、昼の神様という2つの神様の呼び方が出てくるのですが、この2つの表現が意味するところの根本的な違いは何なのかと考えるのですが、どのような答えが一番適当でしょうか? 神様は1つなので、夜の神様も昼の神様も同じ神様だということは、分かります。 ただ現れ方が違いのだと考えてみました。性相と形状。陽性と陰性。という言葉を使えば、夜の神様は、陽性的性相の主体であり、昼の神様は、陰性的形状の主体という見方はどうだろうかとか、心情的な観点から考えると、夜の神様という言葉の中に、喜びも悲しみもすべてを包み込もうとする真っ黒の状態で存在する愛の神様なのかとも感じます。 なぜ同じ一つの神様をあえて、2つの言葉で表そうとされたのか、その動機、目的を知りたいのですが、ブログ主さんは、どのように説明されておられますか?過去のブログの説明の中にありましたら、再度読ませていただきたいと思います。 お忙しいと存じますので、お時間のある時で結構ですので、回答頂けると有難いです。どうぞよろしくお願いします。


  *****


最初に分かりやすい表現で結論を示し、その後、記事において「夜の神様、昼の神様」の起源について説明した部分を掲載します。


「夜の神様、昼の神様」の違いに関するシムソンの簡単な説明
夜の神様は見えない神様本体そのものの呼称です。神様本体はたった一人で存在していました。その時点で、神様以外に存在するものがありませんから、本体とも言えないし、一人と言う概念もありません。その神様が愛し合える対象を創造することを思い立ち、創造するための構想を練り上げます。その構想が創造原理として完成すると、その構想を実現するための御業を展開します。神様本体が自存していた原力を、創造原理に従って応用展開し、被造世界の創造がはじまります。つまり、夜の神様は愛と心情に満ちた神様本体であり、昼の神様とは神様本体の愛と心情によって発動された、創造の御業を実現する神様の見えない手足となるものです。


夜の神様と昼の神様の違いが分かると、神様本体の「愛と心情」がより深く理解できるようになります。何よりも、重要なのが、霊界でも見えないという神様が、どこに所在しているのかが理解できるようになるということです。この理解無くして、永遠に続く私たちの天一国の愛の生活が確立されないのです。


続いて、過去記事から引用します。


  **引用開始**


原理講論において「作品を見てその作者の性稟を知ることができるように、この被造万物を見ることによって神の神性を知ることができるのである。」と記述があります。これに対して、お父様の語られた「夜の神様、昼の神様」のみ言は、被造世界に現れた結果からは、想像することも出来ない神様本体の、根本的核心を明らかにするために語られたものなのです。2008年4月に世界会長となられた亨進様は、常にお父様とともに行動し、指導を受けていました。その亨進様が夜の神様について、食口にも理解できるように次のような表現をされました。


「『夜の神様』は、超越的な神様として全ての万物と時空間が創造される前の『無』の状態、夜の暗闇の状態での見えない神様」(2012年1月29日天福宮)


ここで語られている「無の状態、夜の暗闇の状態」について、お父様はみ言で表現されていました。


夜の中にいた神様の歴史が創造以前の歴史であることを分からなければならない。その夜の歴史の中にいた神様の歴史、創造の前の歴史・・・、神様も大きくて出たという事実が分からなければならない。暗闇の中輝いた。7色光を合わせれば黒になる。その創造以前世界の神様が分からなければならない。元々の根本が分からなければならない。 (2010年4日1日 ワシントン訓読会)


光を照り返す対象がある被造世界では、7色光は白色であり透明とも言えます。それぞれの物質は、その光が反射した光の波長の違いによって、千変万化の色彩で自然界に浮かび上がるのです。そうであるならば、「七色光を合わせて黒」になる世界には、光を反射させる対象が何もないということになります。完全無なのです。それもただの無ではありません。プラスとマイナスが一体となったゼロであり、本陽性と本陰性が完全中和した「無」です。本性相と本形状が完全一体となり、全ての知・情・意の要素が和合した『無の境地』なのです。


お父様のみ言で七色光と表現されているのは、夜の神様にとっては心情のことです。永遠普遍に心情が満ちている状態ですが、その心情に相対する対象の存在が無いので、暗闇の状態なのです。何も無いのではなく、存在自体によって湧き上がる心情が満ち溢れていました。その心情とは何なのかを、統一思想と原理本体論から引用します。


心情とは何か【統一思想 第一章 原相論(二)神性(1)心情から 】
心情は神の性相の最も核心となる部分であって、「愛を通じて喜ぼうとする情的な衝動」である。


心情【原理本体論 第1章 創造原理 3)神相と神性の構造(2)神性】 
神様の神性の最初の要素である心情は、神様の本質的属性である本性相の核です。無限なる神様の属性の中で、最も根本となる属性が心情です。心情が途切れてしまえば、真の愛はありません。


このように心情とは、神様本体の根本というべきものです。しかし、満ち溢れる心情は、対象が現れなければ「無」の境地でしかないということです。夜の神様が愛する対象を得たいと願った時、構想を探ったその時点から、対象への愛は心情の衝動的爆発を呼び起こしたのです。そして、夜の神様は「無」の状態から、愛の生命を得たことを実感したのです。


**天聖経 真の神様 第一章 神様の本体から引用**


五 法度の中での全知全能である 2.愛のみが絶対基準である
神様自身を存在させる起源とは何ですか。何から生まれたのでしょうか。神様が存在するための起源とは何でしょうか。全知全能ですか。絶対的権限ですか。絶対的権限があれば何をするのですか。一人でいるのに、一人でいる両班(ヤンバン)が絶対的権限があって何をするのですか。誰もいないのに。一人で絶対者になっていれば知識があって何をするのですか。神様の本質が何かという問題が重要な問題です。それが愛です。「ため」になれという愛ではなく、「ため」になろうとする愛です。


夜の神様は、相対する対象を想定することによって、愛が自らに新たな生命を与えてくれたことを実感しました。この時、夜の神様は初めて、愛によって生まれた・・・、愛から生まれたと実感したのです。


しかし、愛によって新たに生まれる前から、神様は心情に満ちていながら「無の境地」で永遠普遍の存在として生きておられたのです。この神様の心情と原力との関係を、統一思想においては次のように表現しています。


統一思想:心情と原力
最後に心情と原力について説明する。宇宙万物はいったん創造されたのちにも、絶えず神から一定の力を受けている。被造物はこの力を受けて個体間においても力を授受している。前者は縦的な力であり、後者は横的な力である。統一思想では前者を原力といい、後者を万有原力という。
ところでこの原力も、実は原相内の授受作用、すなわち性相と形状の授受作用によって形成された新生体である。具体的にいえば、性相内の心情の衝動力と形状内の前エネルギー(Pre-Energy)との授受作用によって形成された新しい力が原力(Prime Force) である。その力が、万物に作用して、横的な万有原力(Universal Prime Force)として現れて、万物相互間の授受作用を起こすのである。したがって万有原力は神の原力の延長なのである。


統一思想でも原理講論でも、夜の神様と昼の神様を分けずに表している神様として解説しています。ですから、「性相内の心情の衝動力と形状内の前エネルギー(Pre-Energy)との授受作用によって形成された新しい力が原力(Prime Force) である。」と記されています。「授受作用によって形成された新しい力が原力である」とありますが、これが「無の状態」の夜の神様においては、自存する為の原力となっていたということでしょう。ですから夜の神様を自存させる力は、生命力というよりも存在力と表現したほうが良いのでしょう。しかし、この存在力というべき原力が、被造世界に個性真理体の存在と生命を出現させていく根本的な原力となって行くのです。つまり、心情と原力は、創造を可能にする力であり、生命を誕生させる原力となるのです。


その上で、創造の目的が愛する対象の人間を誕生させることであり、その人間の愛の喜びの為に被造世界の万物を創造した訳ですから、神様を存在させている根本である心情と原力こそ、生命の誕生の基であったと言えるでしょう。そのような意味から、神様の「無の状態」の心情こそ、神様の精子の基となっていると言えるのです。


つまり、聖書の訳者たちが次のように訳した部分・・・。


「闇が深淵の面にあり、神の霊がの面を動いていた。」
「神の息吹は風のように
海原を包んでいたが、深い海の底は暗やみに覆われていた。」


水や海と表現された存在の、神様からの啓示における真実は、夜の神様の「無の状態」の心情と原力であったということです。その無の状態の心情は、夜の暗闇の状態でした。それで水底の闇であり、深い海の底の闇なのです。その闇の眠り、無の状態から目覚めようとする夜の神様は、対象を求めて思索を始めるのです。神様の霊が、生命が入られたかのごとくに、動き始め働き始めるのです。


「神の息吹は風のように海原を包み・・・」「神の霊がの面を動いていた」


夜の神様の存在の根本と言える心情と原力が、生命を誕生させる精子の基でした。これだけの説明では、まだ、もやもやしているかもしれません。これからそのことは、第3節の「光あれ」の光の意味するものが分かれば、よりはっきりと明確になっていくのです。


無の状態、夜の暗闇の状態から、愛する対象を求めて、「光あれ」と、夜の神様は叫ぶのです。その光は、夜の神様にとっての光です。


※真のお父様が今伝えたい事は、どんどん深く本質に入るので早く読み始めてください!


さて、先回の記事で次のように記述していました。


と表現された存在の、神様からの啓示における真実は、夜の神様の「無の状態」の心情と原力であったということです。その無の状態の心情は、夜の暗闇の状態でした。」


無の状態の心情は、夜の暗闇の状態です。当然、第3節で「光あれ!」と叫んだ光の意味が分かるはずです。この聖句について、多くの方々が、宇宙創造の始まりのビッグバーンに重ね合わせていることと思っています。しかし、神様が叫んだ「光あれ」は、夜の神様の暗闇を照らし出す光の事です。


つまり、「愛する対象よ!現れてくれ!」ということです。


新共同訳1987
1:3 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。
1:4 神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、
1:5 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。


新改訳1970
1:3 そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。
1:4 神はその光をよしと見られた。そして神はこの光とやみとを区別された。
1:5 神は、この光を昼と名づけ、このやみを夜と名づけられた。こうして夕があり、朝があった。第一日。


口語訳1955
1:3 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
1:4 神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。
1:5 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。


夜の神様は愛する対象を出現させるために思索を開始し、構想を練ります。しかし、聖句においては「光あれ」と言われた直後に、光が現れたように表現されています。しかし、すぐに現れたのではありません。


創世記第1章では、六日で宇宙が創造されたことになっていますが、原理講論では、これが一日のことではなく、段階的に造られていったことを表し、成長期間を経て完成に至ることを説明しています。故に、一日と表現された実際の期間は、何百万年や何億年、何十億年という歳月になるでしょう。


「光あれ」から「光があった」と結果が現れるまで、神様において千辛万苦を経ているのです。時間が創造される前ですから、表現する言葉がありませんが、気が遠くなるほどの苦心を積み重ねたに違いないのです。お父様のみ言が天聖経にあります。


**天聖経 真の神様 第一章 神様の本体から引用**


四 神様は父であられる 1.神様と人間は父子の関係から引用
神様は完全に投入して愛の対象を創造しました。そのようにしたのは神様も愛の対象が必要だったからです。ところが愛は一人ではできません。どんなに絶対者であっても、その絶対者の前に愛の対象がいてこそ愛することができるので、その愛の対象として人間を造りました。それで人間を造るとき、いい加減に造ったのではありません。聖書にみ言で造ったとありますが、いい加減ではありませんでした。千辛万苦を経て、自分の120パーセント、何百倍を投入して造ったのです。


愛する対象の構想が完成するまで、どれほどの思考を積み重ね悶絶されたことでしょうか。しかし、悶絶するほど苦労しながらも、喜びに満ち溢れた状態であったことは確かです。


そして、「光があった」と表現されていますが、愛する対象である人間にとっての理想世界の構想が完成したことを表しています。それは主体である神様にとっても、愛の喜びの世界です。


「神はその光を見て、良しとされた。」


構想が完成すれば、その構想を実現するために創造に着手しなければなりません。


「神はその光とやみとを分けられた。」


神様本体にあった自存するための原力が、心情の衝動力と一体となって、被造世界を創造するための活動を始めます。神様本体を中心として、活動する神の霊は分立され、神様の愛の対象としての個性真理体を創造し存在させるための、正分合作用の活動を始めるのです。この活動する神の霊こそが、昼の神様なのです。


「夜の神様」は、超越的な神様として全ての万物と時空間が創造される前の「無」の状態、夜の暗闇の状態での見えない神様であり、「有」の状態、時空間の創造後の歴史が始まった後の動きの神様、摂理の神様と呼べるその存在が即ち「昼の神様」です。(亨進様のみ言2012.1.29天福宮)


「神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。」


神様は、愛の理想世界実現に向けて働く自らの霊を、「昼の神様」と名付け、無の状態であった神様本体を「夜の神様」と名付けたのです。夜の神様の意志に従って、昼の神様はまず時間を創造し、創造の為の第一日目を向かえるのです。


まだ、読者の方々の思考においては、釈然としていないかもしれません。しかし、日毎に記事が進むほどに、お父様のみ言のパズルが組み合わさり、想像もできなかった夜の神様の愛と心情の世界が広がっていくでしょう。


どのような千辛万苦を経て構想理想を立てられたのか、何がヒントになって男女の性別を発想したのか?何の理由から生殖器を構築したのか?知りたくありませんか。


何の為にそれを理解する必要があるかと言えば、真のお父様が願う本当の四大心情圏を知り、体恤するためです。


  **引用終了**



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