愛と心情-真のお父様が今伝えたいこと

神様の心情を訪ねて・・・。

幹部たちは真のお父様の代身だからと勝手に位置付けて、神様の息子娘を奴隷にしていたのです!

先回記事末部より


「この女や男たちが、先生の言うことを日本式にみんな解釈して、でたらめにして、ぺちゃんこにしたのです。」


日本ばかりではありません。韓国でも米国でも、世界中の統一教会が、真のお父様の語るみ言も、原理講論の記述も、自分なりに解釈して、その解釈で真のお父様を見てきたのです。自分なりの解釈から判断し、結論を出して行動し、信仰生活を送り、摂理を遂行してきたのです。


だからこそ、1999年10月15日に、真のお父様は「皆裏切る」と語らざるを得なくなったのです。裏切ったあなた方が、まだ裏切ったことに気付かないのであれば、真のお父様について語る資格はないのです。


  *****


もう一度書きます。


「罪悪人間を救うために、イエスが肉身をもって地上に降臨された理由はここにあるのである。」

原理講論の「第一章 創造原理 第六節 人間を中心とする無形実体世界と有形実体世界」には、この一節がはっきりと書いてあるのです。あなたがたが「真のお父様は我々と同じ人間だ」と受け止める原因となった「原理講論」に、この一節が書いてあるのです。


さらに「第四章メシヤの降臨とその再臨の目的」には次のように説明されています。


第一節 十字架による救いの摂理(一)メシヤとして降臨されたイエスの目的
イエスがメシヤとして降臨された目的は、堕落人間を完全に救おうとするところにあるので、結局、復帰摂理の目的を成就なさるためであった。」


そして、霊的に鈍い私たちを惑わす大きな要因となったのが、「第七章キリスト論・第二節創造目的を完成した人間とイエス」の次の部分です。


  **引用開始**
  
(二)創造目的の完成から見た人間とイエス
我々は、既に本章第一節で、完成した人間の価値がどんなものであるかを説明した。そこで、我々は、ここにおいて、完成した人間とイエスとは、いかなる差異があるかという点を考察してみることにしよう。これまで述べたことによって分かるように、完成した人間は、創造目的から見れば、神が完全であられるように完全になって(マタイ五・48)、神のような神性をもつはずの価値的な存在である。神が永遠なるお方であるので、その実体対象として創造された人間も、やはり、完成すれば、永遠なるものとして存在せざるを得ない。その上、完成した人間は、唯一無二の存在であり、全被造世界の主人であるがゆえに、彼なしには、天宙の存在価値も、完全になることはできないのである。


したがって、人間は、天宙的な価値の存在である。イエスは、正に、このような価値をもっておられる方である。しかし、イエスがもっておられる価値がいくら大きいといっても、既に列挙したように、創造理想を完成した男性がもっている価値以上のものをもつことはできない。このようにイエスは、あくまでも創造目的を完成した人間として来られた方であることを、我々は否定できないのである。原理は、これまで多くの信徒たちが信じてきたように、イエスを神であると信じる信仰に対しては異議がない。なぜなら、完成した人間が神と一体であるということは事実だからである。また原理が、イエスに対して、彼は創造目的を完成した一人の人間であると主張したとしても、彼の価値を決して少しも下げるものではない。ただ、創造原理は、完成された創造本然の人間の価値を、イエスの価値と同等の立場に引きあげるだけである。我々は、既に、イエスはどこまでも、創造目的を完成した一人の人間であることを論じた。


  **引用終了**


「創造理想を完成した男性がもっている価値以上のものをもつことはできない。」と説明され、「イエスはどこまでも、創造目的を完成した一人の人間である。」と結論付けているように受け止められます。


しかし、「(二)創造目的の完成から見た人間とイエス」の締めくくりは、次のようになっています。


「特にイエスは人類を新たに生み直してくださる真の父母として来られる方であるから、その点から見ても、人間として降臨なさらなければならないのである。」


「降臨する」とは、人間の誕生ではなく、「神様が地上に降り立つ」ことを表現しています。ですから「(二)創造目的の完成から見た人間とイエス」においての解釈説明は、あくまでも「創造目的の完成」という観点で、イエス様と人間とは何の違いもない「一人の人間」だと主張しているのです。


そして次の項目の「(三)イエスは神御自身であられるのだろうか」には、結論的な内容として次のように記されています。


「また、イエスは、復活後にも霊界で、地上におられたときと同様、神に祈祷しておられる(ロマ八・34)。もし、イエスが神御自身であられるならば、その御自身に対して、どうして祈祷することができるであろうか。この問題については、イエスも、神を父と呼び、自ら神でないことを明らかにしておられる(マタイ二七・46、ヨハネ一七・1)。もしも、イエスが神御自身であるならば、どうして、神がサタンの試練を受け、また、サタンから追われて十字架につけられるなどということがあり得るだろうか。また、イエスが十字架上で、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ二七・46)と言われたみ言を見ても、イエスが、神御自身でないことは明らかである。


霊性が鈍い私たちは、この原理講論の記述から、真のお父様は私たちと同じ人間にしか過ぎないと言う捉え方が当たり前のようになっていました。


だからこそ、真のお父様は1993年から始まった女性修練会において、次のように嘆かれたのです。


「この女や男たちが、先生の言うことを日本式にみんな解釈して、でたらめにして、ぺちゃんこにしたのです。」

この事については、いずれ詳細に語りますが、日本においては摂理の最前線に立つ食口たちは、言葉にできなくても心で分かっている状態でした。幹部たちの日頃の命令や、原理講師たちの講義から「真のお父様は私たちと同じ人間に変わりはない」と思い込まされようとしても、前線に立てば、そこには神様に等しい真のお父様が一人一人を導いてくれていたのです。でも、幹部たちにとっては、真のお父様は幹部たちと同じ人間であってくれたほうが都合が良いのです。自分が真のお父様の代身だからと、勝手に位置付けて、神様の息子娘を奴隷にしていたのです。


原理講論は最初から最後まで、「イエス様は肉身をもって地上に降臨された」という主張で貫かれています。


イエス様は私たちと同じように誕生したのではありません。地上に降臨されたのです。降臨と言う言葉が、私たちと同じ人間に使われるでしょうか。「神様が肉身をもって地上に降臨された」という意味と同様の一節なのです。


あなたがそのことを信じることが出来ないのは、臨在するという言葉の意味を掴めていないからです。その臨在に関する正しい捉え方を根付かせようと、真のお父様が生涯最後の望みとして、深刻な境地で取り組もうとされた日時が2009年3月8日なのです。言わずと知れた「束草事件」の事です。顕進様に「真の父母とアベルカイン」について、真のお父様にお側に侍りながら学ぶように命じたのです。これを顕進様は拒絶しました。どんな世界摂理よりも重要なみ言の摂理であったのです。


「真の父母とアベルカインについて」の内容は、神様がどのような関係性をもって、真の父と真の母に臨在するのかを明らかにするものです。それを明らかにするためには、アベルカインの一体化が重要な意味を持つものとなるのです。それを解釈するみ言こそ「夜の神様、昼の神様」なのです。


イエス様自身しか語れない、真のお父様しか地上界に残すことのできない「三位一体説」に関する「夜の神様、昼の神様」のみ言です。真のお父様が地上に肉体の生命を持つ間に、理解する者が現れなければ、真の愛による神様の存在様相は、永遠に闇に葬られることとなるのです。顕進様に背を向かれた真のお父様は、亨進様に託さざるを得なくなったのです。


真のお父様は私たちと同じ人間であることに変わりはありませんが、人間100%神様100%なのです。神様自身ではありませんが、神様100%人間100%なのです。これを理解できるためには、臨在するという意味を明確に知らなければならないのです。



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