愛と心情-真のお父様が今伝えたいこと

神様の心情を訪ねて・・・。

創世記第1章第3節「光あれ」には、消えた「生命の光あれ」の聖句の謎がある!

先回記事末部より


夜の神様は、構想として立てた愛する対象の人間にも、自らが体験した愛から生まれた実感を、そのまま相続させたいと願いました。夜の神様の根幹であり根本であり本質である心情と、その衝動力を、人間に相続させるためには、同じ体験をさせるしかないのです。ですから第2節の聖句を正しく紐解けば、もう一つの比喩が見えてくるのです。もう一つの比喩とは、「胎児を宿した母の愛」を比喩して綴られた言葉であるということです。


母の胎内で羊水に保護される胎児は、暗闇の中にあります。しかし、それは母の愛に包まれた暗闇であり、無の境地なのです。夜の神様が法則性で存在しているように、母の心臓の鼓動が規則正しく響くその暗闇は、愛と心情で充満しているのです。


お父様が語られた「夜の神様、昼の神様」は、創世記の聖句と共鳴しながら、恐ろしいほど深い深い夜の神様の真の愛の境地まで誘ってくれるのです。


  *****


先々回の記事の最後に次の内容を掲載していました。


「どのような千辛万苦を経て構想理想を立てられたのか、何がヒントになって男女の性別を発想したのか?何の理由から生殖器を構築したのか?知りたくありませんか。」


それに続く先回記事で、神様が「愛から生まれた」と実感した体験から、愛する対象の人間に、同じような体験となる生命の誕生という仕組みを、構築したとする記事を書きました。それに続けて、なお深く、人間の男女を構想した経緯を説明していく事になるのですが、その前に創世記第6節以降の、六日間にわたる天地創造について言及しておきます。


第3節から第5節までの「光あれ」に始まる聖句の「光」は、夜の神様にとっての光を意味し、夜の神様にとっての「愛する対象よ!現れよ!」という意味合いになることを説明していました。その聖句に続く「光があった」という聖句は、愛する対象を創造するための構想が完成したことを表現した聖句であったということです。


すると第5節に続く、第6節は「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」となっています。創造の着手の最初が、この聖句の表現では天地創造の経緯がおかしなものになってしまいます。


第1節から第5節までは、創造前の構想を立てる段階までだと解釈した結果、光の意味するところは「夜の神様の無の状態の心情と原力」であるとなってしまいました。


私は第3節から第5節までは、二通りの意味合いが比喩されているものだと感じています。


創世記は誰が書いたのか、と言えば、創世記から申命記までの最初の5巻は「モーセ五書」と呼ばれ、紀元前1400年ごろにモーセが執筆したと言われています。その中で創世記はモーセが生きていた時代の、ずっと前の事ですから、神様から啓示を与えられた者(たち)が言葉にし、口伝や粘土板に書き記されて代々引き継がれてきた内容を、モーセが編纂したということになるでしょう。


であるならば、神様の啓示とは、どのような形状で人間に伝えられるのかということが問題になります。 


神様との授受作用は、日本語や韓国語や英語などの言葉で会話するのではないと思っています。神様の意志や心情が、言葉になる前の形状化した本性相の表現として、瞬時に伝わってきます。


そうして伝わって来た意志や心情を、受け取った本人自身が言語に変換することになります。その時、それまでに蓄積してきた知識や理論や、体験してきた心情の次元で言葉に変換されてしまうのです。また、言葉にすることが出来ない情報は、心の深奥に記録されたままになります。


ですから、創世記の内容を啓示で受け取った人の表現した聖句は、その時代、その当時の、その人の、知識や理論や心情の次元で表現されているということです。


文鮮明師(真のお父様)が解かれた統一原理を学んだ兄弟姉妹が、その原理とみ言を理解した上で聖句を解釈すれば、聖句だけでは表現しきれていない啓示の部分まで悟れていくようになるのです。


その上で、聖霊と通じるようになれば、創世記第一章第一節から第五節までの、聖句の本当の意味が浮かび上がるようになるのです。真のお父様が語られた「夜の神様、昼の神様」は、創世記第一章第一節から第五節までの聖句を、創造主が直接に解釈しているものであることが分かってくるのです。つまり、啓示を与えた創造主自身の解釈であるということです。


そのようなことから「夜の神様、昼の神様」のみ言を理解したものとして、第3節から第5節を解釈すると、次のような聖句として書くことが出来るのです。


口語訳1955
1:3 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
1:4 神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。
1:5 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。


創造前の「光あれ」
1:3 神は「愛の光あれ」と言われた。すると愛を実現するための光が現れた。
1:4 神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。
1:5 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。


創造開始時の「光あれ」
1:6 神は「生命の光あれ」と言われた。すると生命を誕生させるための光が現れた。
1:7 神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。
1:8 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第二日である。


この言葉に変換される前の、神様から伝えられた啓示は、啓示の受け手が生きていた当時の、文明文化と知識からしか言葉にできません。そこで啓示の受け手は、同じ意味でしか受けとめられなかったということになります。この啓示の受け手が、それでも神様が、同じ聖句を二度書くように伝えてきたと受け止めるので、同じ聖句で二度書いたとします。しかし、伝承されるうちに、同じ言葉を二度繰り返す聖句は、二度目は不要とみなされてしまったと私は思います。


このように啓示の本質から推察して行くと、第3節から第5節の聖句は、二回繰り返されていたことが浮かび上がってきます。


すると「生命の光あれ」との叫びは、138億年前のビッグバーンを意味するものとなり、「光があった」は46億年前に太陽が誕生し、太陽系の形成が始まったことをあらわします。地球は太陽系の形成の過程で45億4千万年前に誕生したと言われています。月もほぼ同じ時期に誕生したと言われています。


つまり、太陽が誕生すると地球も月も誕生し、太陽系を形成したということです。月は地球の周りを回転し、地球は太陽の回りを回転しますから、夜昼はもうその時から地球においては存在したということになります。


しかし、第16節に、太陽と月の誕生を表す聖句が再び登場します。


「神は二つの大きな光を造り大きい光に昼をつかさどらせ、小さい光に夜をつかさどらせ、また星を造られた。」


「光を造り」とありますが、その後に「大きい光に昼をつかさどらせ、小さい光に夜をつかさどらせ、」とあることによって重要な内容・・・、ただの太陽と月の創造ではない、重要な意味合いが浮かび上がって来るのです。上と下に分けた水の役割です。それについては、次の記事で解説します。


お父様の心情に迫りたい方はクリックを
↓ ↓ ↓

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 家庭連合へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 家庭平和協会へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ サンクチュアリ教会へ
にほんブログ村

×

非ログインユーザーとして返信する