愛と心情-真のお父様が今伝えたいこと

神様の心情を訪ねて・・・。

蕩減を「へ」とも思わない顕進様!だから蕩減復帰に生きざるを得なかった真のお父様を理解できない!

パシセラさんのブログ記事「スピリチュアル・リーダーvs 宗教的リーダー」に次のような文章が掲載されていました。


「文先生は『私たちは、教理や宗教的儀式に盲目的に服従して生じた神学的葛藤から、私たち自身を解放させ、その代わりに神様との生きた会話に焦点を合わせる必要があります』と語った人でした。」


「文先生が何をしようとしていたのかを回想することは、祝福家庭にとって、文顕進会長を理解し、自分たちが何をするべきなのかを判断することにつながることです。」


神様との生きた会話に焦点を合わせると・・・、というよりも実際に神様と会話してみると、真のお父様が辿ってきた路程に秘められた本質的摂理が浮かび上がってきます。


パシセラさんが書いているように、その本質的摂理から、顕進様を理解することが出来るようになるのです。何が理解できるようになるかというと、顕進様は蕩減復帰ということをまったく理解していないということです。真のお父様が、最も重要視して暮らされたことが蕩減復帰することです。真のお父様は蕩減復帰とは無縁であらねばならない方でした。しかし、洗礼ヨハネ的人物とキリスト教の背信により、真のお父様は、人類全体が背負っていた蕩減をお一人で背負われたのです。


どんなに老いが迫ろうが、どんなに肉体が衰えようが、私たちが背負うべき蕩減を代わって背負って歩まれてきたお父様なのです。それを理解できない顕進様には、真のお父様は老いて肉体に主管され、回りの側近たちに主管された「老いぼれ」にしか見えなかったということです。


イエス様と出会い、メシヤとしての使命を受け継いだ後に書かれた詩「栄光の王冠」の心情を、聖和の間際まで貫かれた再臨主です。


栄光の王冠
Crown of Glory


私が人を疑う時 私は苦痛を感じます。
私が人を審判する時 私は耐えられなくなります。
私が人を憎む時 私は存在価値を失ってしまいます。
しかし もし信じれば 私はだまされてしまいます。


今宵 私は手のひらに頭を埋め 苦痛と悲しみに震えています。
私が間違っているのでしょうか。
そうです。私が間違っているのです。


たとえ だまされたとしても 信じなければなりません。
たとえ 裏切られたとしても 赦さなければなりません。
憎む者までも ことごとく愛してください。
涙を拭いて 微笑みで迎えてください。
人をだますことしか知らぬ者たちを
裏切りながらも 悔い改めのできない者たちまでも・・・。


おお主よ! 愛するという痛みよ!
私のこの苦痛を御覧ください!
熱きこの胸に 主のみ手を当ててください!
私の心臓は 深き苦悩ゆえに 張り裂けんばかりです。


しかし 裏切った者たちを愛した時 私は勝利を勝ち取りました。
もし あなたも 私のように愛するならば
私はあなたに 「栄光の王冠」をお捧げします。

(Rev. Sun Myung Moon  1935年)


老いてなお、栄光の王冠の心情で貫かれておられる姿が、ただ騙されるボケ老人にしか見えなかったのですか。


あえて騙されようが、摂理的判断は間違わないのです。ですから、聖霊と一体となり、夜の神様と会話することによって明らかになった、真のお父様の極秘だった戦略を私は記事にするのです。


1998年7月19日の世界副会長就任式において、顕進様は蕩減を背負っており、供え物として世界副会長になっているとお父様が語られても、まったく悟ることが出来ずに自分を主張し続けたのです。蕩減など、「へ」とも思わなかったのです。



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