愛と心情-真のお父様が今伝えたいこと

神様の心情を訪ねて・・・。

日本語訳を超えて本当の聖書の意味を知れば、統一原理と信仰と心情の本質的核心が見えてくる!

先回記事後半より


そこで、人類始祖が堕落する前の、神様の霊の働きを知ろうとすると、手掛かりは創世記の第1章第1節に「神の霊」という聖句が出てきます。それから第2章までが、人類始祖の堕落前の記録という事になります。


1:1はじめに神は天と地とを創造された。 1:2地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。

第2章の最後の聖句が次になります。


2:24それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。 2:25人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった


第1章2節に「水のおもて」と表現されていますが、聖書の翻訳者たちによって「水」と訳された「ハマーイム」というヘブライ語には、「精子」という意味もあるのです。このブログの初めの記事である「神様が誕生した瞬間が見えてくる!」で詳しく説明していますが、実は聖句の「水」を「夜の神様、昼の神様」のみ言の観点から訳せば、神様の精子の基となる「夜の神様の無の状態」を現すものとなるのです。


つまり、神様の精子から誕生する人類始祖が結ばれ合うまでの過程を記録したものこそ、創世記第1章第2章の聖句なのです。


その神様の精子の基から、神様の愛の対象としての光となる人類始祖を誕生させるために、神様は「光あれ!」と叫び、神様の霊の活動が始まったという事になります。それが、どんな活動であったのかを紐解けば、堕落前にエバに対して働いていた神様の女性性相としての霊の働きが浮かび上がって来るのです。見えてくるのです。


  *****


旧約聖書には聖霊の働きが「神の霊」と表現され、創世記第1章第2節に登場します。先回記事から表現している聖霊とは、イエス様が霊的真の母を迎えて働けるようになった、神様の女性性相が主となって働きかける神の霊のことです。それ以前の、男性格主体としての神様本体の霊の働きを「神の霊」と呼ぶことになります。その「神の霊」がどのように働いたのかを、第1章は記述しています。


**口語訳聖書から引用**


創世記
第1章
1:1はじめに神は天と地とを創造された。 1:2地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
1:3神は「光あれ」と言われた。すると光があった。 1:4神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。 1:5神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。
1:6神はまた言われた、「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」。 1:7そのようになった。神はおおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられた。 1:8神はそのおおぞらを天と名づけられた。夕となり、また朝となった。第二日である。
1:9神はまた言われた、「天の下の水は一つ所に集まり、かわいた地が現れよ」。そのようになった。 1:10神はそのかわいた地を陸と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神は見て、良しとされた。 1:11神はまた言われた、「地は青草と、種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ果樹とを地の上にはえさせよ」。そのようになった。 1:12地は青草と、種類にしたがって種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ木とをはえさせた。神は見て、良しとされた。 1:13夕となり、また朝となった。第三日である。
1:14神はまた言われた、「天のおおぞらに光があって昼と夜とを分け、しるしのため、季節のため、日のため、年のためになり、 1:15天のおおぞらにあって地を照らす光となれ」。そのようになった。 1:16神は二つの大きな光を造り、大きい光に昼をつかさどらせ、小さい光に夜をつかさどらせ、また星を造られた。 1:17神はこれらを天のおおぞらに置いて地を照らさせ、 1:18昼と夜とをつかさどらせ、光とやみとを分けさせられた。神は見て、良しとされた。 1:19夕となり、また朝となった。第四日である。
1:20神はまた言われた、「水は生き物の群れで満ち、鳥は地の上、天のおおぞらを飛べ」。 1:21神は海の大いなる獣と、水に群がるすべての動く生き物とを、種類にしたがって創造し、また翼のあるすべての鳥を、種類にしたがって創造された。神は見て、良しとされた。 1:22神はこれらを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、海の水に満ちよ、また鳥は地にふえよ」。 1:23夕となり、また朝となった。第五日である。
1:24神はまた言われた、「地は生き物を種類にしたがっていだせ。家畜と、這うものと、地の獣とを種類にしたがっていだせ」。そのようになった。 1:25神は地の獣を種類にしたがい、家畜を種類にしたがい、また地に這うすべての物を種類にしたがって造られた。神は見て、良しとされた。
1:26神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。 1:27神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。 1:28神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。 1:29神はまた言われた、「わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう。 1:30また地のすべての獣、空のすべての鳥、地を這うすべてのもの、すなわち命あるものには、食物としてすべての青草を与える」。そのようになった。 1:31神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である。


  **引用終了**


創世記第1章26節において、神様の息子娘である人類始祖が登場します。その前の記述は、万物の創造に関するものです。この部分の理解が、「聖霊」と「神の霊」を理解していく為には重要な事なのです。


第1節に「はじめに神は天と地とを創造された。」とありますが、すでに創造されてしまったと表現しているのではありません。第2節からの聖句によって、どのような過程で創造されていったのかを説明していくという文章の形式になっています。


先回記事で、この第2節を「夜の神様、昼の神様」の観点から解釈した意味を掲載しました。


>第1章2節に「水のおもて」と表現されていますが、聖書の翻訳者たちによって「水」と訳された「ハマーイム」というヘブライ語には、「精子」という意味もあるのです。このブログの初めの記事である「神様が誕生した瞬間が見えてくる!」で詳しく説明していますが、実は聖句の「水」を「夜の神様、昼の神様」のみ言の観点から訳せば、神様の精子の基となる「夜の神様の無の状態」を現すものとなるのです。<


つまり、「水」とは夜の神様そのものであり、その夜の神様をおおっている神の霊とは、活動し始める前の神様から発動されるエネルギーの事を表現しています。


第3節で神様は「光あれ」と叫び、すぐさま「光があった」と書かれています。「光あれ」がビッグバーンの事で、宇宙の創造開始の事を記述したとすれば、「光があった」と表現された太陽が出現するまで、90億年余りの歳月が過ぎていることになります。


創世記ではその90億年余りの歳月についての記述がありませんが、宇宙の基礎を築く万物創造の期間にこそ、亨進様が語られた次のみ言の理解の必要性が出てくるのです。


  **亨進様著作「はげ頭と苺」より抜粋引用**


私は、これらのことや物理学の他の多くの原理についても熟考するようになり、自分自身の「霊的蘇生」という領域において必要であった霊感(インスピレーション)を多く得るようになりました。


この研究によって、理解の全く新しい段階が開けてきました。もしも量子物理学が正しければ、宇宙エネルギーというものは存在するということになります。というのは、すべての物質は分子からできており、その分子は電子、陽子、中性子その他の亜原子的存在によって構成されており、そしてそれらは量子によって構成されているからです。今まで、常に耳にしてきた「万有原力」というもの、それはどこにでも遍在していて、すべての存在に形態を与え、しかもそれ自体が形態を与える「存在」であるという、これがまさに正しい概念であったという実証を、初めて認識できる形でかつ明白に見ることができました。これには非常に驚きましたが、しかしまだ抵抗しようとする心もありました。


  **引用終了**


創世記第1章で表現された「神の霊」、言い替えれば「心情エネルギー」は、神様の「光あれ!」の叫びによって発動され、「光があった」で、生命の光である「太陽」の創造として結実したことを表しています。


その創造過程において、神様から発動された「神の霊」、別称「心情エネルギー」の働きの主要となる万有原力が、神様から組み込まれたプログラムにより、独自にあらゆる象徴的個性真理体を創造し生成していくようになるのです。


すべての万物が、神様の愛によりデザインされ、心情によって創造され具現化しました。その万物を存在させ続ける力も、神様の心情から発動されています。私を立たせている大地も、神様の愛と心情の現れそのものであり、呼吸している空気も同様です。私の視界に入る樹木も花々も、神様の愛と心情の現れであり、青空も雲も夜空の星々も同様です。


さらに、私の肉体も神様の愛と心情の現れであり、霊体も生心の愛と心情の現れです。


私の存在自体が、神様の愛と心情の現れとなるべきものなのです。


それらすべてが、神様の愛と心情の現れであることを自覚するべき、創世記の第1章の聖句なのです。


まずは、ここまで噛みしめていただき、次に進んでいきます。



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