愛と心情-真のお父様が今伝えたいこと

神様の心情を訪ねて・・・。

神様はfarisuさんを用いて語られ、三位一体の核心を歴史上初めて解明する土壌を創られる!

先回記事末部より


私たちが肉体をもって実感した肉的五感の感覚は、霊体の生心に伝えられることによって心情を形成して行きます。その私たちに協助している霊たちも、私たちの肉体の肉的五感を共有しているということです。


でも、私たちが生きている感覚の中で、そのような協助霊が、肉体を共用しているという感覚を掴んだことがありますか?おびただしいほどの霊たちが、私の肉体の感覚器官に繋がっているのですが、そんなことはまったく感覚できないと思います。夜の神様と真のお父様の関係においても同様です。夜の神様が生心に臨在されていても、臨在されているという感覚など、欠片ほども無いということです。


それでは、どのような関係性をもって、真のお父様は夜の神様の存在を確認し、授受作用するのかということが問題になります。そこに、三位一体の本質があるのです。


それはまた、次回で・・・。


  *****


三位一体論の解明を歴史上はじめて解明するなどと、大それた記事の題名にしました。それぐらいの覚悟でいるということです。これまでの記事も難解なのに、それ以上の次元にある内容を書き込んでいきます。難しい内容であり文章であり、語られている本質も、軽い気持ちで読んだのでは受け留め切れないでしょう。


書いている本人が歴史を掛けるというほどに決意していますので、批判や反論する方々も、それなりの覚悟でお願いしますよ。真剣勝負は気持ちの良いものです。


でも、気軽なコメントの中にも、普通では悟れない深い本質が潜んでいたりしますので、軽いタッチでコメントを下さってもOKです。


そのように考えてみると、farisuさんの反論は、実は意義深いものです。三位一体論を語れるようになるために、読者の方々の心情的土壌を耕して下さろうとする神様の配慮であることに気付かせていただきました。


感謝!感謝!の反論を、farisuさんがまた記事にしてくれました。大変良い、妥当な内容を書いておられます。先回記事と同じく、引用文の間に、私の見解を挿入します。今回の私の挿入文は【】内紫文字にいたします。【】内での真のお父様のみ言は水色にします。



  **『「御父様」お1人では、「真の父母」にはなれません。』引用開始**


「御父様」お1人では、「真の父母」にはなれません。


サンクチュアリ教会のカテゴリーに参加しているブログ「聖霊とともに―メシヤの涙」のブログ主さんが、ブログ「愛と心情-真のお父様が今伝えたいこと」というブログを立ち上げて、今回、「シムソンは微妙に原理理解がずれ、こじ付けであり、明らかに間違いだという有難い記事が発信された!」で、私の投稿への反論をされています。


私は、仕事が忙しく、じっくり、論議することができませんので、気長に、一つ一つ、確認していきたいと思います。


話は、変わりますが、今日、申し込みしていた「郭錠煥先生の本」が来ました。


思っていた以上に、内容が多い厚い本となっていました。


少し、読み始めましたが、読みきるには、時間がかかりそうです。


いったい、統一教会に何が起きたのかを知るには、とても、貴重な本となると思いますが、反顕進様派からすれば、すべて、でっちあげだと言って終わるのは、目に見えていますが、現在、反顕進様であっても、将来、「真実」を知りたいと思うようになった時、その方にとって、とても、貴重な本となると思います。


  ***


シムソン【夜の神様御自身も著作を発行するそうですよ!その本と合わせて読めば、とても意義深いと思います】


  ***


「一人でも「真の父母」である真のお父様が私たちの父であるように、」


という表現は、


「神は本性相と本形状の二性性相の中和的主体であると同時に、本性相的男性と本形状的女性との二性性相の中和的主体としておられ、被造世界に対しては、性相的な男性格主体としていまし給うという事実を知ることができる。」


という「原理講論」の「創造原理」に出てくる、「神様の定義」を想起させます。


しかし、


シムソンさんが言われる、


【親と言う概念で捉えることはもちろんですが、それでは漠然としています。父の心情とともに母の心情も体恤した愛の人格者となるということです。一人でも真の父母とは、父母の心情の体恤者であるということです。】


【「総称」というのも漠然としています。再度書き留めますが、父の心情とともに母の心情も体恤した愛の人格者になるということです。それも「真」とありますから、神様の心情の動機と同じ衝動から発せられる父母の愛の心情ということです。】


というご説明は、ちょっとずれているような気がします。


  ***


シムソン【気がしますでは駄目です。断言しなければ批判になりません。】


  ***


御父様は、アダムです。アダム・エバではありません。


「被造物はすべて、無形の主体としていまし給う神の二性性相に似た実体に分立された、神の実体対象であることが分かった。このような実体対象を、我々は個性真理体と称する。人間は神の形象的な実体対象であるので、形象的個性真理体といい、人間以外の被造物は、象徴的な実体対象であるために、それらを象徴的個性真理体という。
 個性真理体は、このように神の二性性相に似た実体として分立されたものであるがゆえに、それらは、神の本性相的男性に似た陽性の実体と、その本形状的女性に似た陰性の実体とに分立される。」


神の本性相的男性に似た陽性の実体=アダム
その本形状的女性に似た陰性の実体=エバ


ということになります。


  ***


シムソン【farisuさんがこの記事を公開した後に、私は別の記事を書いています。そこに書いたのは「原理講論とは、夜の神様・・・つまり神様本体に思いを馳せることも出来なかった著作となっているのです。」という内容です。原理講論を悪く言っているわけではありません。原理講論は永遠に価値と意義を持つ重要な著作です。しかし、その価値に本質的核心を注入するみ言が「夜の神様、昼の神様」なのです。】
【原理講論は夜の神様と昼の神様を分けていないばかりでなく、昼の神様が前面に出ての理論的解説になっています。つまり、神様本体が見えてこないのです。神様本体の本質的核心は、愛と心情です。そうです。このブログの題名です。夜の神様の発動される愛と心情によって、原理講論の内容はより天一国の心情世界を支える論理的支柱となるものなのです。】

【どんな根拠から・・・、「真のお父様は一人でも真の父母」の言葉に込められた本質と、「御父様は、アダムです。アダム・エバではありません。」という表現を同一に並べて反論とするのでしょうか。アダムとエバは男性と女性の名前です。父と母とは、そこに愛と心情が込められ溢れだしている呼称です。つまり、「真のお父様は一人でも真の父母」とは心情世界の表現であり、心情世界が実感として見えてくると、原理講論に記載されている言葉や用語を応用展開活用して説明することが出来るのです。それは、もう少し、farisuさんの主張を読んでからにしましょう。】


  ***


神の本性相的男性に似た陽性の実体=アダムに、「父の心情とともに母の心情も体恤した愛の人格者となるということ」が求められているのでしょうか。


「エバ」はどうでしょうか、
「父の心情とともに母の心情も体恤した愛の人格者となるということ」が求められているのでしょうか。


「一人でも真の父母とは、父母の心情の体恤者である。」


「アダム」は、「神の本性相的男性に似た陽性の実体」としての「個性完成」を願われており、
「エバ」は、「その本形状的女性に似た陰性の実体」としての「個性完成」を願われているのではないでしょうか。


「個性完成したアダム」と「個性完成したエバ」が、夫婦となり、子女を繁殖することにより、「父母」となるのではないでしょうか。


「真の父母」は、「真のアダム」と「真のエバ」が、「夫婦」となり、「真の子女」を地上に繁殖することにより、「真に父母」になるのではないでしょうか。


「真のアダム」がどんなに頑張ったとしても、「真のエバ」いなければ、「真の父母」になれないことは、道理ではないでしょうか。


「父の心情とともに母の心情も体恤した愛の人格者」


とありますが、響きはいいですが、「アダム」が「父の心情」と「母の心情」を「体恤」することは可能でしょうか。


  ***


シムソン【響きが良いということは、本心に響いているということです。素直に受け止めれば良いものですがね。】


  ***


「アダム」にも「母性」があり、「エバ」にも「父性」があるのかも知れませんが、その「母性」、「父性」は「属性」といわれるものではないでしょうか。


「アダム」に「エバ」の持つ「母性」をそのまま、「体恤」することは、不可能です。


だから、「エバ」が存在するのです。存在する意義があるのです。


「アダム」と「エバ」は違う「心情・個性・性質」があるのですから、「アダム」が、「本性相的男性と本形状的女性との二性性相の中和的主体」となることは、非原理的見方です。


  ***


シムソン【神様本体、つまり夜の神様は男性格主体です。それは原理講論のとおりです。問題にしているのは、その神様本体の心情から溢れ出す真の愛のことです。ここの違いが分かりませんか?その夜の神様は、真のお父様の肉体と霊体の感覚器官を共有して、真の愛を実感して行くのです。神様本体が実現したい四大心情圏が、「子女の愛・兄弟姉妹の愛・夫婦の愛・父母の愛」です。真のお父様が四大心情圏を成就されれば、夜の神様も成就するのです。】


※真のお父様のみ言※
霊界に行って、妻を愛し夫を愛した人を見ると、その下に小さく、写真のように男性が入っているのです。それは誰でしょうか? 自分の夫なのです。それゆえに誰もが化身体なのです。男性の中に女性の性稟が入っており、女性の中に男性の性稟が入っているのです。それは原理そのものです。そのようにこれから生活しなければなりません。これが第四次アダム家庭に先生が与える最高のプレゼントです。(1997.9.11第四次アダム圏時代宣布、早朝七時、米国・イーストガーデン)】


【第四次アダム家庭は四大心情圏を成就した家庭です。その家庭の父母には「男性の中に女性の性稟が入っており、女性の中に男性の性稟が入っているのです。それは原理そのものです。」という状態になるというのです。愛と心情の世界は、計り知れなく奥の深い次元にあります。】


  ***


『「御父様」お1人では、「真の父母」にはなれません。』


「エバ」は、「アダム」が1人でも「真の父母」になるための「手段でも道具でも」ありません。


「エバ」は「アダム」が「真の父母の真の父」となるための「必須条件」です。


「アダム」は、「エバ」が「真の父母の真の母』となるための「必須条件」です。


「真のアダム」と「真のエバ」が揃って「真の父母」となるわけです。


「地上天国は実体の真の父母と共に暮らす所であり、天上天国は永遠なる霊的な『神様父母』と共に暮らす所です。…アダム・エバが天上天国に上がっていけば、彼らが神様の位置に立つのです。そうして神様が、実体を着たアダム・エバの体として変化した、霊的な主体的主人公として現れるようになるのです。霊界に行くようになれば、『神様お父様』だけいるのではないのです。『神様お母様』がいるようになる、ということです。お母さん、お父さんなしに生命体が生まれ得ますか?そのようなお母さん、お父さんのように、アダム・エバの背後には、神様が分かれて出てきて、一つになっているのです」(1977.1.1)


  ***


シムソン【神様が分かれて出て来てとありますね。夜の神様と昼の神様に分かれて、アダムが夜の神様の実体と成り、エバが昼の神様の実体と成り、四大心情圏において心情一体になるのです。その心情一体となった根本に、夜の神様の三位一体があるのです。真のお父様と真のお母様が一体となって作り出す、夜の神様の三位一体の世界こそ、天一国における真の愛の核心なのです。】


  ***


『「御父様」お1人では、「真の父母」にはなれません。』
ということが解かりましたか?


  ***


【反論を出す時は、反論する相手の文章と、言わんとしていることを、よく理解した上で書き記しましょう。「お父様は一人でも真の父母」と記述したのであって、一人で真の父母になれるなどと、どこにも書いていません。勝手にでっちあげて、自分ででっち上げたものを批判している。】

それに、韓氏オモニが駄目なら、代わりの戦略が準備され遂行されています。】


※真のお父様のみ言※
先生はそれを知っているので、先生の基準までお母様を引き上げるのです。嫌だと言っても引き上げて、引き上げながら行くのです。その為、荷物を積んだ車の車輪が一つ故障しても、荷物を積んで倒れずに目的地にさえ行けばいいのです。分かりますか?支障があっても、音がしても。音がするからとそれを遮断することはできないのです。
ですから、
そのような音がならないように修理して、代わりにすることができれば代わってすればいいのです。少しでも進むことができるように、仮面劇をして行かなければならないのです。ですから、絶対に引っかかってはならないというのです。お母様はそのようなことがよく分かりません。先生が耐えて超えるのです。ですから、今、二つの峠しか残っていません。それをお母様は分かっていない。それが何であるか分からない。
(み言資料:み言選集367巻 - 263ページ 2002.1.23.ハワイキングガーデン)】


【私たちの常識や通念や概念をはるかに超えて、夜の神様と真のお父様は勝利されているのです。】




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