愛と心情-真のお父様が今伝えたいこと

神様の心情を訪ねて・・・。

無限に無限を重ねて透明な暗闇から「光あれ!」の叫びは上がった!

神様が愛から生まれたと感じた時に体験した、純粋な悲しみの心情について質問をいただきました。


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強いて言えば、愛したいと思った瞬間、監獄、牢獄に閉じ込められたという感じでしょうか。


暗闇の中、何にも音のない場所から、人間が誕生して完成するまで、誰も助けてくれない???そういうことでしょうか。


過去に、私もこのまま独りだったら、どうなるのかとか、気が狂うだろうかと思ったことがありますが、そんな感じでしょうか。


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人間の体験には比べようが無く、例えようがありません。


神様自身が「愛から生まれた」という実感を持った時に、その喜び感動感激は自体内の授受作用では収まり切れなくなりました。永遠普遍という無限大無限数にも収まり切れない喜びを、分かち合いたい衝動が永遠普遍の存在の至る所から湧き上がるのです。永遠普遍の全てから、心情が涙となって溢れます。神様のその時の涙は、自分自身が永遠普遍の無限範囲なのに、収まり切れなくなった愛です。喜びを分かち合いたいと願ったその愛は、最短距離で対象を目指しますから、私たちが知る涙の形ではなく光のように、永遠普遍の神様の無限範囲の存在圏を照らし出そうとします。しかし、自体内の授受作用からは輝き返してくれる存在の欠片も無かったのです。


あまりにも切なくて、全知全能の知情意と法則数理性を駆使して、絶対者としての存在を超えようとするのです。その本性相と本形状の最大限の授受作用から、親子の生命システムによる四大心情圏三大王権の構想が立ち上がってくるのです。


2003年8月に、産まれ変わりの霊山と言われる月山の頂上で、私は、その神様の心情を体験させていただきました。月山の頂上で私の体が空に突き出され、雲一つない青空の青が私に向かって落ちてくるのです。私は濁りの無い純粋な青に包まれて、神様の悲しみの心情を注がれてきました。


何かを失ったり、苦しめられたりする私たちが知る悲しみとは、次元を異にする心情です。愛したくてたまらないのに、分かち合う相手がいない。全知全能にして絶対者の神様が出会った極限の悲しみ・・・・。そしてそれは同時に、愛し合うことへの希望であり、悲しみをも超えて湧き上がる衝動力となっていくのです。


その体験をしてから半年後、イエス様の十字架の心情を思いやっている時に、車のハンドルを握る手の甲に、一滴の雫が落ちてくるのです。イエス様の涙だと私は思いました。それから、神様が抱き包んできて、互いに涙して抱き合う体験をするようになりました。


そして私は、それから誰からも理解されなくなりました。家族でも理解できない境地に、たった一人、私は神様を信じる事を選びました。



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