愛と心情-真のお父様が今伝えたいこと

神様の心情を訪ねて・・・。

生素の真相!

第13回み言で学ぶ本体論セミナー
2.創造主の完成期間!(7)神様の青年期ー生素の真相


先回のセミナーで、真のお父様が本来願った究極の真理は、「真の父母様の本体論」として現れるものであったことを説明しました。


その究極の真理の解説は、本となって発刊された著作とはなっていませんが、真のお父様は地上におられる時に、全て比喩と象徴による詩的表現で語られていました。


2004年5月5日の双合十勝日において、新天新地が開闢しています。その年の11月の「真の子女の日」には、これまでの「第8回み言で学ぶ本体論セミナー」で解説した女性の構想について明らかにしていたのです。


さらに、2004年5月5日双合十勝日の前月4月19日の「第45回真の父母の日」には、生素の吸収について、より明確になるみ言を明らかにされていたのです。


先回のセミナーで取り上げた生素についてのみ言の、最初の部分は、神様が創造主となるまでの、成長期間のことを語られていました。先回セミナーで取り上げていますので、ここでは主要な部分だけ読み上げます。


「神様ご自身も、生まれるために心と体が一つになったのと同じように、その心と体が真の愛を中心として一つになっているので、真の愛を中心として心と体のようなものが、小さな所から大きくなってきたということです。」

「神様も大きくなっていったのです。神様も大きくなり、アダムとエバが造られる時までにはすっかり大きくなり、もう一回り回って、すべて包括できる立場に入ってきたのです。無形の神様は、実体対象圏と関係を結ばなければならないのです。」


創造主としての成長を始める前の、他の何ものをも意識していなかった神様には、まだ誕生という概念自体がありませんでした。永遠普遍の存在であり、それまでの神様の思考や意識世界に「他者への愛」も無ければ、「生まれる」という事も「死ぬ」ということも、考え思い浮かべる必要が無かったのです。それとともに悪というものも、微塵も存在していなかったことはいうまでもありません。だからこそ、永遠の喜びの境地に存在する全知全能の絶対者であったのです。


しかし、すでに説明してある通りに、神様は自らの本性相における知情意の意識世界及び無意識世界が、本形状の絶対服従性による授受作用の無限の繰り返しから、存在の喜びが増幅していました。自ら自身の本性相から来る絶対性により、本形状は自存エネルギーとして本性相の知情意の思考を意識世界に浮かび上がらせていました。本性相と本形状の無限の授受作用を繰り返し、喜びを増幅させていくと、その喜びの感覚が神様の無意識世界全体まで包み込まれる感覚を得た時、それまでとは次元の違う喜びとして、包容感という感覚を得て、初めて自分以外の対象の存在を意識するようになったのです。


その包容感を神様は愛として実感し、包み返したいと願いましたが、本性相はエネルギーとしての存在であり、包み返すことは出来なかったのです。


このみ言では、「神様も大きくなり、アダムとエバが造られる時までにはすっかり大きくなり、もう一回り回って、すべて包括できる立場に入ってきたのです。」と表現されています。宇宙の根源は、神様が感じ取った包容感にあったのです。自分の存在を喜びとする自存エネルギーが、神様自身を包み込んでくる感覚を心情で受け止め、それを神様は愛として実感しました。しかし、対象を愛そうとした時に、自らには愛する対象が存在していない事を悟ったのです。


どんなに対象を愛したくてたまらなくても、その愛に答える対象の存在が無く、神様は愛したい心情を発動させるほどに、虚無の暗闇の中にいることを実感するのです。そのような虚無の暗闇の状態に落ちた神様を、真のお父様は夜の神様と呼ばれたのです。


虚無の状態、物理学的に言えば真空に向けて、どんなに爆発的な絶対主体の愛したい衝動力を発動放射しても、真空はピクリとも反応しませんでした。相対基準が出来ないのです。永遠普遍の神様の自体内での本形状の自存エネルギーは、絶対的な相対基準と共にあって本性相に即応していました。しかし、対象としての他の存在にむけて自存エネルギーを発動しようとしても、新たな対象の為の相対基準は何処にもないのです。どんなに自存エネルギーを発動放射しても、真空状態の無の暗闇でした。


そこで神様は、他の何ものをも意識していなかったそれまでの自分自身が、喜びの境地にあったにもかかわらず、愛に目覚めてみると「死」に等しい虚無感となって無限の暗闇が包み込んで来るのです。しかし、その無の暗闇の境地で、夜の神様は愛したくてたまらない主体としての根底に、対象としての真の愛に絶対服従して生きたい心情が潜んでいたことに目覚めるのです。目覚めると同時に、夜の神様の心情において、絶対主体と絶対対象の相対基準が結ばれたのです。


それまで発動放射していた自存エネルギーは、対象を意識しようとしてもなんの反応もなく、陽性陰性に分立展開できずに、真空と同化していました。その自存エネルギーが、真の愛に絶対服従して生きたい衝動が湧きあがった瞬時において、無限の真空から新たなエネルギーとして顕現し、真の愛が中心となり、その無限のかなたから一気に押し返して来て夜の神様を包み込んだのです。最初に体験した愛に覚醒した包容感に加えて、この時に夜の神様は包括感を感じ取り、本性相と本形状が真の愛に満たされる実感を得たのです。


自存エネルギーが、まったく新たなエネルギーとして夜の神様を包み込んで来ました。夜の神様は包容感に包まれた感覚を得た時から、愛する対象を意識するようになり、本性相の内的性相が刺激され愛の種を持つようになっていました。さらに対象との相対基準を得た新たなエネルギーに包まれることにより、内的性相、つまりは絶対主体としての心情圏は包括感に満たされたのです。すると内的形状において、自体内で絶対対象としての相対基準を造成し、真の愛が夜の神様の実感となり顕現したのです。その真の愛の中心点に「生命の種」が現出し、「愛の種」と「生命の種」が授受作用して生素としてのエネルギーを充満させることとなるのです。真のお父様は、天聖経に記されたみ言では、「生命要素」と表現しています。


「愛の種」は絶対主体の心情の究極の結実となり、その奥に潜んでいた絶対対象としての心情が「生命の種」として結実し一体となりました。そこで神様が包みこまれていた感覚は、明確な真の愛の胎内に孕まれた実感となるのです。その真の愛の胎内で、愛の種と生命の種が一体となって生素に満ち、そこから神様の成長が始まるのです。そのような観点から、「第45回真の父母の日」のみ言が次のように続いていくのです。


  *****


 真の愛を中心として、骨と肉が、骨と皮になり、骨があれば必ず皮ができます。すべてを見てみれば、骨には膜があり、そこに軟骨のようなものが連結され、すべてのものを連結できるのです。


 ですから、骨のような神様の無形の実体が心的基準であり、それと皮のようなものを包指し、真の愛を中心として初めから一つになるのです。さらに、腹中の胎児に例えれば、胎児は父親と母親の精子と卵子が一つになって、父親の精子が骨になり、母親の卵子が皮になって、母親の子宮に入っていって大きくなるのです。


 それと同じように、神様も、無形の存在を中心として、神様の見えない宇宙の中で、腹中の胎児のように成長してきたのです。何を中心として成長してきたのでしょうか?それは真の愛です。


  *****


このみ言で「骨のような神様の無形の実体が心的基準であり」と表現されているように、神様の本性相の心的基準とは、心情の動機によって判断されるものではないでしょうか。


ですから、真の愛を中心として、心と比喩された本性相と、体と比喩された本形状が一つになるとは、本性相にある絶対主体としての「愛したくてたまらない心情」と、本形状の絶対対象としての「真の愛に絶対服従して生きたい心情」が一体となって、愛から真の愛に昇華して、心情の神様が生まれたことを表現しています。


私たちは神様が創造された被造世界に誕生し、神さまとは存在している次元が違います。ですから、真のお父様が神様の様相や心情を解説するにおいて、私たちが理解できるように表現するには、私たちが存在している3次元世界の言葉で表現するしかないのです。


このみ言には例えの表現が幾重にも重なり合って、真の愛の本質的起源を盛り込んだものとなっているのです。


愛の種は「父親の精子」に比喩され、それが骨となるとあります。骨は本性相の内的性相から溢れる「愛したくてたまらない心情」の象徴となります。また生命の種は「母親の卵子」に比喩され、皮となると語られています。皮は本性相の内的形状の根底にある「真の愛に絶対服従して生きたい心情」の象徴となります。


もっと深く追求すれば、「父親の精子」と比喩された「愛の種」は、夜の神様が本形状の自存エネルギーからの包容感を初めて実感し、「対象を愛したくてたまらない心情の動機」を得た、絶対主体としての覚醒の瞬間を象徴した「み言」です。その夜の神様は無の暗闇の状態に落ちましたが、絶対対象としての「真の愛に絶対服従して生きたい心情の動機」を得ました。「母親の卵子」と比喩された「生命の種」とは、絶対主体に対する完全相対基準を得ることとなる「絶対対象」としての心情の動機への、覚醒の瞬間を象徴したみ言であったのです。


この絶対主体の心情と絶対対象の心情が一体となって、真の愛の胎内に生素は充満するようになりました。その生素を夜の神様が吸収できるようになったのは、絶対主体である神様が、真の愛を自らの本質的核心とする「絶対信仰・絶対愛・絶対服従」により中心として立てたからです。その「絶対信仰・絶対愛・絶対服従」によって、自らの対象に真の愛を注ぐことにより、生素を吸収し成長が始まったのです。


つまり、「絶対信仰・絶対愛・絶対服従」こそが、神様を成長させ、骨と比喩された「愛したくてたまらない心情」をより大きく深く広く普遍なものとして行くのです。その心情と一体となっている「皮と肉」に比喩された「真の愛に絶対服従していきたい心情」をも同時に拡大展開させ成長していくこととなるのです。


この「絶対信仰・絶対愛・絶対服従」の信仰と心情における境地を、神様は三次元世界に誕生する人間の体に置き換えて、栄養を吸収し肉体を成長させる五臓六腑に例えて、次のように語られたのです。


*****


 ですから、骨と肉がこのときは縦横を中心としているので、心と体のようなものが、無形ですが、骨と肉のようなものが、縦的な垂直と横的な平衡を中心として、愛を中心として大きくなっていくのです。


 ここからこの実体を中心として抜き出したものが骨と体なのですが、そこに器官として入れておいたのが人間の五臓六脈です。あばら骨の中にあるすべてのものは、のどから肛門まで切って、すぱっと抜き出せば、五臓がさっと出てくるのです。


鳥などを捕まえてみれば、骨と肉がすべて一つになっていますが、その中で五臓は、上と下がつながっています。この体の中で五臓が動くことができるのと同じように、無形の神様が、そのような立場で心と体が、骨と肉が大きくなっているのです。


それで、これを実体圏に移しておくためのアダムとエバの創造であったということです。分かりますか?


  *****


肉体の成長は、被造世界の万物からの栄養を、食べることを通して五臓六腑から吸収することによって行われています。肉体を作っている骨と肉と皮を成長させているのです。その事に例えて霊人体の成長を説明しているのです。被造世界に込めた真の愛による生素を、吸収できる要因こそ、神様の真の愛への「絶対信仰・絶対愛・絶対服従」で真理を実践していくことであるのです。その霊人体の成長に関する解説を、真のお父様は永遠の記録として地上に残されておられたのです。


神様に対して絶対対象である私たち人類にとっての「絶対信仰・絶対愛・絶対服従」とは、「真の愛に絶対服従して生きたいと願う心情の動機」からのものであることを、私たち自身に悟らせるために、真のお父様は比喩と象徴の詩的文体で残されたのです。真のお父様が生素について教えたのではなく、私たち自身一人一人が蕩減復帰して獲得したものとして下さる為なのです。


ここで気付かなければならない事は、見えない心情世界を、物質として現れた肉体の部位に例えたことによる表現の、奥深さからくる質の違いです。肉と皮は骨を包み込む存在です。骨は包み込まれる存在ですが、肉と皮の存在の支柱となるものです。


それに対して見えない心情の世界は、包み込まれる骨に性相が例えられますから、霊人体においては「生心」を意味する事になります。包み込む「肉と皮」は形状の例えとされているので、霊体を意味する事になります。その心的基準の違いは何かと言えば、本性相における絶対主体としての「愛したくてたまらない心情の動機」であり、本形状においては絶対対象としての「真の愛に絶対服従して行きたい心情の動機」です。この心的基準の違う心情の動機が、絶えず授受作用しながら一体となって生きることこそ、「絶対信仰・絶対愛・絶対服従」の心の姿勢なのです。


神様と私の関係においては、私が神様の前に絶対対象となってこそ、私の愛したくてたまらない心情の動機は、初めて真の愛で愛したい心情の動機となるのです。それでこそ、私の愛は真の愛となるのです。そして、人間との関係性、つまり兄弟姉妹の関係、アベルカインの関係性は、互いに神様の前に絶対対象となってこそ、初めて互いの真の愛に自然屈服し合えるようになるのです。互いの神様の真の愛への「絶。対信仰・絶対愛・絶対服従」こそが、アベルカインの一体化をもたらし、神様の真の愛に互いに従うようになるのです。


本来、人類始祖が堕落しなかったならば、家庭における四大心情圏の子女の愛・兄弟姉妹の愛・夫婦の愛・父母の愛を通して、愛の人格が完成して行くはずでした。本然世界では、神様が138億年の歳月を費やして整えたこの宇宙の、大自然の原理軌道に乗ってさえいれば、自ずと宇宙に溢れる生素が吸収されて霊人体は成長し完成に至るはずでした。神様を父親とし、宇宙を母親として生まれた人類始祖は、本心において、神様の「絶対信仰・絶対愛・絶対服従」の真の愛への心の姿勢を、成長と共に相続するようになっていたのです。その心の姿勢が「絶対性」として結実し、神様からの祝福を受けるようになっていたのです。


しかし、堕落によって罪を蕩減しなければならなくなり、アベルカインによるサタン分立の摂理が現れ、蕩減復帰路程を通して一体化しなければならなくなりました。


アベルカインの一体化とは、神様の供え物を取られたアベルに、カインが従えばよいというだけではなく、互いに真の愛に至る心情を復帰する路程であったのです。


互いに神様と通じ合い一体化したアベルカインは、神様自身が導いてくださるようになるのです。たとえそれが、組織となってどんなに大きくなろうとも、一体化した心情基台にお父様の聖霊を迎えるようになります。お父様の聖霊とは、神様が送って下さるものですが、一人一人に対して真のお父様に導かれるようになるのです。この事は「聖父・聖子・聖霊」の三位一体が理解できれば分かります。一人一人の個性を結集し、それぞれの自らの意志で使命と責任を担いながら、神様の願う一つ一つの摂理を成し遂げて行くようになるのです。神様の摂理を担う中で、アベルカインを通して、互いが「絶対信仰・絶対愛・絶対服従」で真の愛を復帰していく時、私たちは生素を吸収できるようになっていくのです。


そのようなアベルカインの関係性の繋がり合いの生活において、兄弟姉妹として私たちの霊人体は宇宙全体から生素を吸収し、成長するようになるのです。そして、一人一人が天一国の王王妃として真の愛の人格を完成して行くのです。


今回のセミナーでは、神様の真の愛そのものが生素となっていることを解説しました。その生素を、神様はどのようにして吸収したのかが分かれば、神様の息子娘である人類が、どのようにすれば生素を吸収し、霊人体が成長できるのかを解説しました。次回は、この生素の成長の結実が、どのように被造世界に現れるのかを説明します。



第12回み言で学ぶ本体論セミナー



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