愛と心情-真のお父様が今伝えたいこと

神様の心情を訪ねて・・・。

神様は創造前に利己的な存在から生まれ変わったことを「愛により生まれた」と表現したのか!

今回の記事では、「本然世界に展開する真の父母様の本体論」入門編「2.自己中心の神様が真の愛の神様に生まれ変わることになる根源を知る為に!」の内容を掲載します。


  **引用開始**


本然世界に展開する真の父母様本体論入門!(前半)
「絶対性と神様の血統」


第1章 神様の誕生
2.自己中心の神様が真の愛の神様に生まれ変わることになる根源を知る為に!


まず、「真の父母様の本体論」を理解する為に、また「夜の神様」を正しく理解する為に、神様が一人でおられた時の状態を知らなければなりません。真のお父様は次のように語られています。


「御旨と世界」 人間に対する神の希望より
「我々は、人間には利己的な傾向があるということを知っています。これはある一時期、神御自身が自己中心的であられたので自然なことなのです。この事実はあなたを驚かすかもしれませんが、しかし、神は人間と宇宙とを創造される前は、たった一人で、御自身以外の何ものをも意識することなく存在しておられたということを理解しなければなりません。しかしながら、神が創造に着手されたその瞬間に、神の中の生命という概念が完全にかたちとして現れてきたのです。神は、今や、御自身のためではなく、その対象物のために生きるようになったのです。」 


これは神様が夜の神様となられる前の、たった一人でおられながら、存在自体が喜びとなっていた全知全能・絶対者としての神様です。


神様はたった一人で存在していたころ、ご自身以外の何ものをも意識することなく存在していたと、真のお父様は語られています。神様自体内の本性相本形状は、その分け目なく完全一体となり、自我の存在の喜びを享受していました。


この時の神様の状態と様相を、正しく知ることから始めなければならないのです。これまでの原理講論には、神様の定義について次のように解説されていました。


創造原理 第一節 神の二性性相と被造世界(一) 神の二性性相
神は本性相と本形状の二性性相の中和的主体であると同時に、本性相的男性と本形状的女性との二性性相の中和的主体としておられ、被造世界に対しては、性相的な男性格主体としていまし給うという事実を知ることができる。


これは夜の神様と昼の神様を分けることなく、一つにして「神」としてあるので本性相的男性と本形状的女性としてありますが、たった一人で存在していた神様には、男性と女性という概念は、まだ無かったという事実こそが当然であることです。


この文節の前の部分に次の解説があります。


創造原理 第一節 神の二性性相と被造世界(一) 神の二性性相
「それでは、性相と形状の二性性相と、陽性と陰性の二性性相とは、互いにいかなる関係をもっているのだろうか。本来、神の本性相と本形状は、各々本陽性と本陰性の相対的関係をもって現象化するので、神の本陽性と本陰性は、各々本性相と本形状の属性である。それゆえ、陽性と陰性とは、各々性相と形状との関係と同一なる関係をもっている。したがって、陽性と陰性とは、内外、原因と結果、主体と対象、または縦と横との相対的関係をもっている。神が男性であるアダムの肋骨を取って、その対象としての女性であるエバを創造されたと記録してある理由もここにあるのである(創二・22)。我々はここにおいて、神における陽性と陰性とを、各々男性と女性と称するのである。」


「本来、神の本性相と本形状は、各々本陽性と本陰性の相対的関係をもって現象化するので、神の本陽性と本陰性は、各々本性相と本形状の属性である。」


このように解説されているように、たった一人であった神様の自体内、本体内では、男性と女性の違いではなく、本陽性と本陰性の相対的関係によって現象化し、神様自体が自らの本性相本形状の存在を感覚できるようになるのです。


ここで陽性と陰性について、統一思想の解釈を取り上げます。長文ですが、この理解が重要です。


 *****


統一思想 2存在論 個性真理体 陽性と陰性
陽性と陰性も二性性相である
次は、個性真理体の陽性と陰性について説明する。原相論で述べたように、陽性と陰性も神の二性性相であるが、それは性相と形状の属性である。つまり性相にも陽性と陰性があり、形状にも陽性と陰性があるということである。


まず、人間の性相と形状における属性としての陽性と陰性について説明する。人間の性相は心であるが、心には知情意の三機能がある。この知情意のそれぞれの機能に陽的な面と陰的な面があるのである。


知の陽的な面は、明晰、記憶、想起力、判明、才知などである。それに対して知の陰的な面は、模糊、忘却、記銘力、混同、生真面目などをいう。情の陽的な面は、愉快、騒がしい、喜び、興奮などであり、情の陰的な面は、不快、静 粛、悲しみ、沈着などである。意においては、積極的、攻撃的、創造的、軽率性などが陽的な面で、消極的、包容的、保守的、慎重性などが陰的な面である。


形状すなわち体においては、隆起した部分、突き出した部分、凸部、表面などが陽的な面であり、陥没した部分、孔穴部、凹部、裏面などが陰的な面である。


  ・・・動物、植物、鉱物の場合の解説を略・・・


人間の場合の陽性実体と陰性実体
「形状(身体)において、男と女の陽陰の差異は明らかであって、それは量的差異である。すなわち男の身体は女の身体に比べて陽的な要素がより多く、女の身体は男の身体に比べて陰的な要素がより多いのである。それに対して性相(知情意の心)における男女間の差異は質的な差異である。」


  *****


 統一思想においても、夜の神様昼の神様の区別が無く、一体の神様として解説していることを前提にして受け止めなければなりません。しかし、統一思想からは、より本質的な神様本体の様相を知ることが出来ます。


神様の形そのままに創造した人間においては、形状の陽陰は量的な差異であり、性相における陽陰の差異は質的な差異であるとあります。人間は神様の形に創造されたのですが、永遠普遍の神様の存在とは次元の違う三次元の時空間内に創造されましたから、形状における量的差異が現出するようになります。この量的差異について、統一思想では「性相と形状の異同性」の解説において、神様の形状とは異質の状態と説明されるようになります。私たちは神様の形そのままに創造されたとばかり理解してきましたが、神様の形状とは違う三次元の物質世界の形状を異質な状態と言っているのです。神様とは全く異質の形状を、人間も万物も持っているという矛盾にこそ、後ほどの解説において、本質的心情世界の偉大さを発見することが出来るようになるのです。


神様においても人間においても、性相における知情意の機能や心情の差異は質的なもので、量として表されるものではない様相であるように、神様本体の中では陽性陰性が多様な授受作用で展開しながら全体として中和していたということです。つまり、たった一人自己中心で存在していた神様には、時空間という概念が無く、量の差異という概念もこの段階では、量ではなく質の違いだったということです。


数理性について取り上げるならば、プラスとマイナスで無限の数がありますが、数量の違いというよりもプラスとマイナスの全く逆の質の違いと認識され、神様本体内では完全中和されていたということになりゼロの状態で全ての数を内包しているという状態です。


ここから神様における本性相と本形状を正しく認識しなければ、神様の覚醒の瞬間に起こったことについて理解できないのです。統一思想の「第一章 原相論一 原相の内容(一)神相(1)性相と形状」の解釈が本然の様相を表していますので抜粋引用します。


本性相の内部構造
神の性相はさらに内的性相と内的形状という二つの部分からなっている。内的性相は機能的部分すなわち主体的部分をいい、内的形状は対象的部分をいう。次に神の内的性相と内的形状を理解しやすくするために、人間の場合を例にして説明する(人間の心は神の心と似ているからである)。


内的性相
内的性相すなわち機能的部分とは知情意の機能をいう。知的機能は認識の能力であって、感性、悟性、理性の機能をいう。情的機能は情感性、すなわち喜怒哀楽などの感情を感ずる能力をいう。意的機能は意欲性、すなわち欲求や決心、決断する能力をいう。このような機能は内的形状に能動的に作用するから、内的性相は内的形状に対して主体的部分となっている。知的機能における感性とは、五官に映るままに知る能力、直感的に認識する能力を意味し、悟性とは、論理的に原因や理由を問いながら知る能力であり、理性とは、普遍的真理を求める能力、または概念化の能力をいう。


・・・例は省略、以下の内的形状の説明に追いても人間を例としている部分を省略・・・


内的形状
内的形状は本性相内の対象的部分をいうが、それはいくつかの形の要素から成り立っている。そのうち重要なものは観念、概念、原則、数理である。


神様の本性相においては、神様の心の活動の全てを担っており、その核心に心情があります。心情は神様の性相の最も核心となる部分であって、「愛を通じて喜ぼうとする情的な衝動」です。この心情の衝動力が本性相と本形状の相対基準を造成します。すると、本性相における知情意の機能が、原理に則って意思展開するようになります。その展開に対して、本形状の前段階エネルギーが知情意の展開そのままに働くエナジー(力)となって、神様本体内に現象化するので、神様自身も自分の意志や思考の展開を認識できるのです。その意志や思考の展開が認識自覚されるので、心情が刺激され、より大きな喜びを求める衝動となって無限の展開となるのです。つまり、神様自身が本性相で展開する思考や心情を自覚できるのは、その思考や心情を完全一体となって現象化してくれる本形状のエナジー(力)があるからです。


次に統一思想の本形状の解説を抜粋引用します。


統一思想 原相論 2 形状(本形状)  本形状と被造物
神の形状(本形状)を人間に例えれば体に相当するものであり、それはすべての被造物の有形的な要素(側面)の根本原因である。すなわち人間の体、動物の体、植物の細胞・組織、鉱物の原子・分子などの究極的原因なのである。言い換えれば、神の本形状が次元を異にしながら、時間・空間の世界に展開されたものが鉱物の原子・分子であり、植物の細胞・組織であり、動物の体であり、人間の体なのである。これもまた相似の創造によるものである。


このように被造物の有形的要素の根本原因が神の形状であるが、この被造物の有形的要素の根本原因には二つの側面がある。一つは素材(質料)的要素であり、もう一つは無限の形態を取ることのできる可能性(無限応形性)である(万物の形態自体の根本原因は内的形状にある←本然の本体論では内的性相も関わる)。


ここで「無限な形態を取ることのできる可能性」(無限応形性)を水の場合を例に取って比喩的に説明する。水自体は他の万物と違って一定の形態がない。しかし容器によっていろいろな形態を現す。三角形の容器では三角形として、四角形の容器では四角形として、円形の容器では円形として現れる。このように水が無形なのは、実はいかなる容器の形態にも応ずる無限な応形性をもっているからである。すなわち水が無形なのは実は無限形であるためである。同様に、神の本形状も、それ自体は一定の形態がないが、いかなる形態の映像にも応ずることのできる応形性、すなわち無限応形性をもっているのである。このように被造物の有形的要素の根本原因には素材的要素と無限応形性の二つがあるが、この二つがまさに神の形状の内容である。


この統一思想の本形状の解説から理解できることは、次の内容になります。


本形状とは何かといえば、本性相の核心にある心情の衝動と、完全一体となる相対基準を造成し、働く力、つまり前段階エネルギーそのもののことです。そのエネルギー、またはエナジーは、神様の本性相で展開される原理と法則に則った知情意による思考活動を、神様自体内で現象化させ、神様自身が自覚できるようにする働きを持つものだったのです。本形状は、属性である陽性陰性の多岐多様な無限の組み合わせの授受作用によって、本性相の心の活動のままに展開し、神様の意識上に現象化させ、神様自身が認識できるものとなって、核心である心情を刺激していたのです。


たった一人で存在していた神様は、時空間の無い永遠普遍の存在ですから、数理は数量の違いではなくプラスマイナスの質の違いとして認識され、ゼロのなかに内包されたものとなっていました。数理と数量が、原理と法則に則って展開した三次元の世界に、誕生し存在している私たちには想像することも出来ない次元の世界です。その時点での神様からは、時空間に制約された世界自体が、まだ概念に浮かび上がるものではありませんでした。


たった一人でもまだ完全無欠であり、全知全能の絶対者ですから、完成された必然性の中で、永遠の二性性相の授受作用によって、増大し続ける喜びの境地にあり、人間に例えれば「無我の境地」「悟りの境地」にあるのです。この自己中心な神様から、何故に真の愛と心情の神様へと昇華することになったのでしょうか。


真の愛と心情に突き動かされた神様は、自分の様相とは違う、全く異質な被造世界を構想することになるのです。統一思想の第1章原相論(一)神相(1)性相と形状 2 形状(本形状)の性相と形状の異同性では、次のように解説しています。


そのように性相の中にも形状的要素があり、形状の中にも性相的要素があるのである。したがって、原相において性相と形状は一つに統一されているのである。本質的に同一な絶対属性から性相と形状の差異が生じ、創造を通じてその属性が被造世界に現れるとき、異質な二つの要素となるのである。これを比喩的に表現すれば、一つの点から二つの方向に二つの直線が引けるのと同じである。そのとき、一つの直線は性相(精神)に対応し、他の直線は形状(物質)に対応するのである。


神様本体内では性相と形状は完全統一されたものでした。しかし、創造を通して異質な二つの要素となったと説明しています。私たちは性相においては神様の形そのままに展開されますが、形状においては異質な世界に生まれたことになります。異質な世界で存在成長していますから、何の不思議もなく生活していますが、この異質な世界を構想する前の自己中心な神様から見たならば、神様にとってもとんでもない飛躍を遂げた世界だったのです。


そして私たちは、何故に神様が飛躍できたのか、という根本の理由を知らなければ、私たちの住む世界がどれほどの価値ある世界なのかが分からないのです。私たちはまだ、真の愛がどれほどのものなのかが、分かっていないのです。それは、天一国というものを、まだ、全く理解していないと言って良いほどのことです。




お父様の心情に迫りたい方はクリックを
↓ ↓ ↓

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 家庭連合へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ サンクチュアリ教会へ
にほんブログ村

×

非ログインユーザーとして返信する