愛と心情-真のお父様が今伝えたいこと

神様の心情を訪ねて・・・。

家庭連合の偽聖霊に心閉ざされた食口には、目玉が飛び出て鱗が落ちるほどの「男女の性別の起源」!

先回記事末部より


次回の記事では、この記事で説明した「ですから、息子を中心として見るとき、」から始まるみ言の、次の段落を加えた解説をします。


「二性性相の形象的実体女性分野を中心として抜き出し、アダムと同じ形の主体対象関係なのです。エバには、性相的プラス内容があるので、自然に連結させる関係が結ばれるようになっています。因縁において関係が結ばれるように、男性と女性になっているのです。」

すると、より明確に「真の愛の起源」が明確になり、本然の男性と女性の関係性というものが理解できるようになるはずです。


  *****


このみ言の中に、「形象的実体女性分野」という表現が出てきます。その前の段落には「女性世界」という表現があります。はたして、このみ言の表現は何を指しているのでしょうか。


私たちはこれまで、男性を陽性実体と呼び、女性を陰性実体と呼んできました。どちらも陽性と陰性を備えているけれども、男性が陽性の要素が多くあり、女性は陰性の要素が多くあるものだと理解して来たのではないでしょうか。はたしてそうなのでしょうか?このことを理解するにおいて、統一思想においては、とても分かりやすく解説されています。長い文章になりますが、下線で示した赤文字部分に注目して読んで見てください。


**統一思想 第1章原相論より引用開始**


 陽性・陰性と男子・女子との関係


 ここで問題となるのは、陽性・陰性と男子・女子との関係です。東洋では古来から、男子を陽、女子を陰と表現する場合が多くありました。しかし統一思想では男子を「陽性実体」、女子を「陰性実体」といいます。表面的に見ると東洋の男女観と統一思想の男女観は同じように見えますが、実際は同じではありません。


 統一思想から見るとき、男子は陽性を帯びた「性相と形状の統一体」であり、女子は陰性を帯びた「性相と形状の統一体」なのです。したがって男子を「陽性実体」、女子を「陰性実体」と表現するのです(『原理講論』P48)。


 ここで特に指摘することは、男子を「陽性実体」というときの陽性と、女子を「陰性実体」というときの陰性が性相・形状の属性としての陽性・陰性とは必ずしも一致しないということなのです。すなわち、性相においても形状においても、陽性と陰性の特製は男女間で異なっているのです。そのことを具体的に説明すれば、次のようになります。


 まず、形状における陽性と陰性の男女間での差異を説明します。形状すなわち体において、男女は共に、陽性である隆起部、突出部や、陰性である陥没部、孔穴部をもっていますが、男女間でそれらに差異があるのです。男子は突出部(陽性)がもう一つあり、女子は孔穴部(陰性)がもう一つあるのです。また身長においても、臀部の大きさにおいても、男女間で差異があります。したがって形状に陽性と陰性の男女間での差異は量的差異なのです。すなわち、男子は陽性が量的により多く、女子は陰性が量的により多いのです。


 それでは性相においてはどうでしょうか。性相における陽性と陰性の男女間での差異は、量的差異ではなく質的差異なのです(量的にはむしろ男女間で差異はありません)。例えば性相の知において、男女は共に明晰さ(陽)をもっていますが、その明晰さの質が男女間で異なるのです。男子の明晰さは包括的な場合が多く、女子の明晰さは縮小指向的な場合が多いのです。才知においても同様です。また性相の悲しみ(陰)において、過度な場合、男子の悲しみは悲痛に変わりやすく、女子の悲しみは悲哀に変わりやすいのです。性相の意における積極性(陽)の場合、男子の積極性は相手に硬い感触を与えやすいが、女子の積極性は相手に軟らかい感触を与えやすいのです。男女間のこのような差異が質的差異なのです。


 このように性相において、陽性にも陰性にも男女間で差異があるのです。これを声楽に例えると、高音には男子(テノール)と女子(ソプラノ)の差異があり、低音にも男子(バス)と女子(アルト)の差異があるのと同じなのです。


 このように陽性と陰性は男女間において量的または質的差異を表すのですが、男子の陽性と陰性をまとめて男性的、女子の陽性と陰性をまとめて女性的であると表現するのです。したがってここに「男性的な陽性」と「女性的な陽性」という概念が成立するのです。


 ここにおいて、次のような疑問が生じるかもしれません。すなわち形状においては男女間の差異が量的差異であるので、男子を陽性実体、女子を陰性実体と見るのは理解できるのですが、性相において、男女の差異が質的差異だけで、量的には男女は全く同じ陽陰をもっているのに、なぜ男子を陽性実体、女子を陰性実体というのか、という疑問です。


 それは男女間の陽陰の差異が量的であれ質的であれ、その差異の関係は主体と対象の関係であるということから解決されるのです。後述するように、主体と対象の関係は積極的と消極的、能動的と受動的、外向性と内向性の関係になります。ここに性相(知情意)の陽陰の男女間の差異においても、男性の陽と女性の陽の関係、および男性の陰と女性の陰の関係は、すべて主体と対象の関係になっているのです。


 すなわち、知的機能の陽において、男性の明晰の包括性と女性の明晰の縮小指向性が主体と対象の関係であり、情的機能の陰において、男性の悲痛と女性の悲哀の関係も主体と対象の関係なのです。また意的機能の陽において、男性の積極的の硬性と女性の積極的の軟性の関係も主体と対象の関係なのです。これは男女間の陽陰の質的差異は量的差異の場合と同様なのであって、男性と女性の関係が陽と陰の関係であることを意味するのです。以上で男性を陽性実体、女性は陰性実体と呼ぶ理由を明らかにしました。


  **引用終了**


つまり男性と女性における陽性陰性は、量的には同様に備えているけれども、質的な違いがあり、男性の陽性陰性は主体として立つための性質を持っており、女性の陽性陰性は対象としての性質を持っているという事です。


つまり、「女性世界」とは、ただ陰性要素が量的に多い世界という事ではなく、主体に対して対象に立とうとする神様に生じた心情世界のことを指しています。つまり、神様が愛により生まれたことから、愛に対して絶対服従したいと感じ、絶対的対象に立ちたいと願う心情世界です。


神様は愛に対して絶対服従したいと願い、その絶対服従したい対象を、愛においては主体として立てて形象化し、実体として現出させたいと願ったのです。つまり、愛に対して絶対服従したいと願った心情世界を、女性分野として実体化しようとしたのです。それこそが、真のお父様が「形象的実体女性分野」と表現した内容です。


ですから、夜の神様としての神様本体に、「無の暗闇の状態」の時から、「女性分野」及び「女性世界」があった訳では無いのです。愛に対して絶対服従したいと願った事から、自らを男性として立て、愛する対象を女性として性別を構築する為に、陽性陰性を形象化及び実体化させるためのデザインが成されていくようになるのです。ですから女性とは、絶対服従したい愛し合う対象として、自らの陽性陰性の要素をもとにして構築した、対象としての性質を備えた陰性実体なのです。


少しずつ、真のお父様のみ言の奥深さが、理解出来ていただければありがたいです。まだまだ序の口で、これからなのです。


このみ言の中の、次の部分、「エバには、性相的プラス内容があるので」「プラス内容」が何を言っているのかが分かると、理解は飛躍するのです。



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