愛と心情-真のお父様が今伝えたいこと

神様の心情を訪ねて・・・。

それが分からなければ真のお父様を信じる私たちは、艱難時代の嵐に翻弄されるしかありません!

先回記事で取り上げた天聖経のみ言を、再び取り上げ引用します。


  **引用開始**


地上生活と霊界 第3章 霊界 1) 肉身をもって体恤可能な霊界
④霊的体恤の過程


 我々が信仰の主体である神様を敬うその立場に立っているとしても、それは曖昧です。では、それ自体をどこから探すべきでしょうか。


 主体は確定していますが、「私」は感じることができないのです。我々が五官で分かるように、そうだということを確定づけることができないのです。これをどこから調べることができるかという問題を考えるとき、主体から調べることはできません。神様から調べることはできないのです。これはどこまでも、「私」から調べなければなりません。「私」という存在には、体と心があります。体と心があるのに、体を心としてはこれを調べることができません。心を中心として調べなければならないのです。


 今日、堕落した我々人間たちを見るとき、その心自体が千人なら千人、万人なら万人が全部同じでしょうか。その根本は同じかもしれませんが、体は素性(そせい)に従って違うのです。全部が同じではないのです。それは、なぜそうなのでしょうか。顔が違い、趣味が違い、我々の感じる感情が違うのと同様に、その度数を描くことができる平衡線と垂直線が違うのです。その度数を合わせなければならないというのです。


 そうするには、どのようにすべきでしょうか。天が主体なら、その主体の前に「私」が対象的な立場に立つのです。主体となる神様は、人間に対象として感応することができる基礎を必ず与えたために、平面的な心の根本の基準の前に垂直に向かう、そのような方向がなければなりません。必ずあるということです。


 我々が水平線を見るようになるなら、これは平面になっていますが、これが垂直に立つようになれば、この垂直線の基準が全部違うのです。では、そのゼロ点基準をどのように合わせるかというのです。こちらに行けば、必ず反対になるために、そのゼロ点を合わせなければなりません。皆さんが発電所に行ってみれば、メーター器がたくさんあります。メーター器にゼロ点基準のようなものがあって、それを中心としてすべての加減の調整をして、その力向や力や量の対比を定めるのと同様に、そのようなゼロ点基準がなければならないのです。


 では、ゼロ点基準とは、どんな位置でしょうか。ありながらもないようであり、ないながらもあるような位置です。その位置があるのです。それゆえ、今日座禅をする人たちが、「無我の境地」という言葉を使いますが、それもやはりそのような境地なのです。そのような霊的基準に接近することができる「私」にならなければなりません。そのような基準になれば、必ず自己の水平線基準が反応することができる、そのような何かがあります。


 それゆえ、心も見てみると、心の門があります。心門と言います。そうでありながら、その門がいつも一面でだけ開かれているのではなく、心自体が回っているために、その門も移動するのです。それゆえ、この門を通らずには、プラスを中心として、マイナスの立場で関係を結ぶことができないのです。人にはこのような心門があるのです。


 皆さんが祈祷をしてみれば、時間によって感じが違います。午前1時に祈祷するのと、3時に祈祷するのとは違います。それは皆さんが体験してみれば分かります。神秘的な深い境地に入って祈祷してみれば、祈祷する時間によって違うのです。感じが違うのです。朝に感じるのと、真昼に感じるのと、夕方に感じるのと、夜に感じるのと、すべて違います。


 そのように、我々の心の状態からも、感じるその基準が違うのです。我々の肉体的な感情が、四季の季節の変化によってその感じる感度が変わるのと同様に、心の世界もそうなのです。それゆえ、祈祷をするにも、どんな時間によくできるかを知るべきです。それはどういうことかというと、神様との感応の度が近いのです。よくできるというそこに、だんだん入るようになれば門に出会うようになるのです。神様の心の門と、人間の心の門がびったりと合って、ある基準まで合わせて入るようになる場合には、神様が感じることを体恤する道が生じるのです。


 皆さんがこのような場に入るためには、どのようにすべきでしようか。心を磨かなければなりません。


  **引用終了**


神様の息子娘としての私たちは、真のお父様が語られる心の門というものを開くことがとても重要です。心の門は、私がゼロ点基準に立てた時に開かれます。


真のお父様は「セロ点基準」を次のように表現されています。


「では、ゼロ点基準とは、どんな位置でしょうか。ありながらもないようであり、ないながらもあるような位置です。その位置があるのです。それゆえ、今日座禅をする人たちが、「無我の境地」という言葉を使いますが、それもやはりそのような境地なのです。そのような霊的基準に接近することができる「私」にならなければなりません。そのような基準になれば、必ず自己の水平線基準が反応することができる、そのような何かがあります。」


座禅をする人たちの「無我の境地」と、真のお父様のもとにある私たちの違いは、私たちには「無の暗闇の境地」でゼロ点基準に立たれた「夜の神様」がおられるということです。そのゼロ点基準で、夜の神様は愛に対して絶対的に従順になり服従したいという衝動が湧き上がったのです。ただの無我の境地ではありませんが、絶対無私にならなければ、その衝動は来ないのです。


そして、神様の心の門と、自分の心の門が一つに合わさって、神様の門の向こう側に行かれた方こそ、イエス様であり、真のお父様なのです。神様と私の心の門が通じると、私の無の境地ではなく、夜の神様のゼロ点基準の向こう側に夜の神様が連れて行ってくれるのです。


夜の神様、つまり神様本体のゼロ点基準の向こうには、父の情しかありませんでした。ですから、真のお父様は「宇宙の根本は父子の因縁」と決定付けられたのです。イエス様も同様に、ゼロ点基準の向こう側で、天の父の心情を体感したのです。その体感したそのものが、父なる神様の精子となるのです。


その父なる神様の、精子を迎える卵子を持つ神様の妻を、神様は昼の神様の実体として創造するようになるのです。


ですから、神様を「天の父母様」と呼ぶ韓鶴子氏は、神様の心の門に自分の心を合わせることができなかったのです。そのため、神様のゼロ点基準の向こう側にいくことを、神様から拒まれた女性となってしまったのです。


「私は神様です。」と血迷った韓鶴子氏を、息子として、「あなたは神様の妻です」と諭した亨進様は、心の門が神様の心の門と一つとなった方です。ですから、神様が父として、真のお父様の中におられることを実感として体恤されたのです。


つまり、真のお父様が、「信仰体験において誰よりも優れている」と亨進様を証ししたのは、まさにこの事です。


夜の神様のゼロ点基準の、向こう側に行くことができなかった全ての食口が、その真のお父様の亨進様に対する証の意味を悟れませんでした。


そして何よりも知らなければならない事は、亨進様がゼロ点基準に立って神様の心の門と一つとなる事の意味が、私たちの同じ体験とは全く違うということです。夜の神様は真のお父様の生心に臨在され、夜の神様の生殖器と真のお父様の生殖器が、完全一体となって神様の精子が送られたのです。つまり、亨進様をはじめとする真の子女様方は、夜の神様から直接に受けた神様の精子から誕生した息子娘なのです。


ですから、夜の神様と亨進様の心の門が一つになるということで、亨進様は初めて、神様が直接に自分を生んだのだということを自覚することになったのです。その時、亨進様の前に、夜の神様と真のお父様は完全一体となって現われ、真の愛に包み込まれたのです。


その亨進様と互いに自然屈服し合うことによって、国進様もまたゼロ点基準で夜の神様と心の門を一つにされたのです。ここに絶対不変の四大心情圏三大王権の礎が刻まれたのです。


だからこそ、今、私たちは過去を悔い改め、神様の心の門と私の心の門が一つとなれるように、ゼロ点基準に立たなければならないのです。そうすれば、この艱難時代の嵐に翻弄されない明確なビジョンを、三大王権とともに出来るのです。


私たちは、天地人真の父母様と亨進様御夫妻・国進様御夫妻で築かれた、四大心情圏三大王権の新天地がどのようなものであるかを知らなければならないのです。



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