愛と心情-真のお父様が今伝えたいこと

神様の心情を訪ねて・・・。

「神を侮辱する者」という私への最大の侮辱への答えです!

先回記事に対して、ヨナさんより次のようなコメントをいただきました。


  ***


神様に忠実でありたいという願いがよく伝わってきますね!
そのお気持ちに敬意を表します。


しかし、全知全能の神様さえ考えが及ばない、とは、神を侮辱する者の考え方に他なりません。
もし神が全知全能であれば不可能なこと、考えも及ばないものはないからです。
堕落の時に既に救いを用意されていた(創世記3:21)ことを見てもよくわかります。
神様は人知を超えた存在なのです。


メシヤは人として受肉された神なのです。


  ***


とてもありがたいことです。疑問点や批判などありましたら、どんどん質問なり、批判なりしていただけると感謝です。


私の書いた先回の記事の中で、ヨナさんから「神様を侮辱する者の考え方に他ならない。」と指摘を受けた個所を抜き出します。


  **記事文章から抜粋**


永遠普遍の夜の神様を包み込んでくるものがあるなどと、全知全能の神様でさえ考えが及ばぬことでした。それが、神様自身と完全一体となっているがゆえに、その存在様相を完全に消し去っていた内的愛(前段階エネルギー)が、神様の根本である心情を通して神様の知情意を刺激した瞬間、愛は他のどんな作用にも増して心情の中心点から湧き上がるとともに、神様自身を包み込んでくるのです。永遠普遍で無限の神様をも包み込んでくる愛の偉大さに、神様が目覚め、「愛により生まれた」と実感したのです。


  **抜粋引用終了**


夜の神様の前に冠されている「永遠普遍」とは、どのような状態なのでしょうか。永遠とは時間を超えて無限である事であり、普遍とは空間を超えて無限である事でしょう。さらに夜の神様においては、時空間が創造される前に、3次元ではない超越した存在においての無限の様相です。神様しか存在しない、その夜の神様の世界・・・、その夜の神様の持つ無限性・普遍性をさらに超えて包み込んでくるもの・・・。そんなものは存在しないはずでした。


だからこそ、神様の本性相本形状は心情を中心として合成一体化し、完全和合体として、「無の暗闇の境地」にあったのです。しかし、その境地が「無」であり「暗闇」であったと神様が悟られたのは、「愛により生まれた」ことを実感された時です。それ以前は、心情を中心とした自体内の授受作用による正分合作用で、一体化している事の喜びの境地で自存されていたのです。その夜の神様こそ、絶対唯一であり全知全能である神様でした。


全知とは神様の本性相の知情意の機能の「知」においての事でしょう。「全能」とは知情意の「意」においての「全能」であるはずです。それでは「情」において「全情」ということがあるでしょうか。


情は知識や理論を超えて展開する心の動きです。神様においての全知全能は、情に結実して、神様の根本である心情として発動されます。神様が「愛により生まれた」と実感した体験は、神様の全知全能の権能を超えた境地で展開した出来事なのです。


それまで神様を存在させ活動させるために、対象として完全一体となって、存在自体を消し去っていた「内的愛」に包み込まれる感覚は、全知全能を超えた心情世界で神様自身が体験した境地です。ここが神様にとっての真の愛におけるゼロ点基準です。「無の暗闇の状態」から抜け出すための「ゼロ点基準」です。「無」が「ゼロ」に変わったのです。そこが神様にとっての真の愛のスタート地点となったのです。


神様はこの「ゼロ点基準」に立って、真の愛による創造のスタート地点に立ったのです。神様は知識や理論では説明できないこの「ゼロ点基準」に、人間の誰しもが立てるようにできる環境として、被造世界という環境を創り上げたのです。ですから、私たち人間が「ゼロ点基準」に立てるためのみ言を、真のお父様は天聖経に残されています。それを理解することによって、神様の立った「ゼロ点基準」とは何なのかを理解できるはずです。天聖経より引用します。


  **引用開始**


地上生活と霊界 第3章 霊界 1) 肉身をもって体恤可能な霊界
④霊的体恤の過程


 我々が信仰の主体である神様を敬うその立場に立っているとしても、それは曖昧です。では、それ自体をどこから探すべきでしょうか。


 主体は確定していますが、「私」は感じることができないのです。我々が五官で分かるように、そうだということを確定づけることができないのです。これをどこから調べることができるかという問題を考えるとき、主体から調べることはできません。神様から調べることはできないのです。これはどこまでも、「私」から調べなければなりません。「私」という存在には、体と心があります。体と心があるのに、体を心としてはこれを調べることができません。心を中心として調べなければならないのです。


 今日、堕落した我々人間たちを見るとき、その心自体が千人なら千人、万人なら万人が全部同じでしょうか。その根本は同じかもしれませんが、体は素性(そせい)に従って違うのです。全部が同じではないのです。それは、なぜそうなのでしょうか。顔が違い、趣味が違い、我々の感じる感情が違うのと同様に、その度数を描くことができる平衡線と垂直線が違うのです。その度数を合わせなければならないというのです。


 そうするには、どのようにすべきでしょうか。天が主体なら、その主体の前に「私」が対象的な立場に立つのです。主体となる神様は、人間に対象として感応することができる基礎を必ず与えたために、平面的な心の根本の基準の前に垂直に向かう、そのような方向がなければなりません。必ずあるということです。


 我々が水平線を見るようになるなら、これは平面になっていますが、これが垂直に立つようになれば、この垂直線の基準が全部違うのです。では、そのゼロ点基準をどのように合わせるかというのです。こちらに行けば、必ず反対になるために、そのゼロ点を合わせなければなりません。皆さんが発電所に行ってみれば、メーター器がたくさんあります。メーター器にゼロ点基準のようなものがあって、それを中心としてすべての加減の調整をして、その力向や力や量の対比を定めるのと同様に、そのようなゼロ点基準がなければならないのです。


 では、ゼロ点基準とは、どんな位置でしょうか。ありながらもないようであり、ないながらもあるような位置です。その位置があるのです。それゆえ、今日座禅をする人たちが、「無我の境地」という言葉を使いますが、それもやはりそのような境地なのです。そのような霊的基準に接近することができる「私」にならなければなりません。そのような基準になれば、必ず自己の水平線基準が反応することができる、そのような何かがあります。


 それゆえ、心も見てみると、心の門があります。心門と言います。そうでありながら、その門がいつも一面でだけ開かれているのではなく、心自体が回っているために、その門も移動するのです。それゆえ、この門を通らずには、プラスを中心として、マイナスの立場で関係を結ぶことができないのです。人にはこのような心門があるのです。


 皆さんが祈祷をしてみれば、時間によって感じが違います。午前1時に祈祷するのと、3時に祈祷するのとは違います。それは皆さんが体験してみれば分かります。神秘的な深い境地に入って祈祷してみれば、祈祷する時間によって違うのです。感じが違うのです。朝に感じるのと、真昼に感じるのと、夕方に感じるのと、夜に感じるのと、すべて違います。


 そのように、我々の心の状態からも、感じるその基準が違うのです。我々の肉体的な感情が、四季の季節の変化によってその感じる感度が変わるのと同様に、心の世界もそうなのです。それゆえ、祈祷をするにも、どんな時間によくできるかを知るべきです。それはどういうことかというと、神様との感応の度が近いのです。よくできるというそこに、だんだん入るようになれば門に出会うようになるのです。神様の心の門と、人間の心の門がびったりと合って、ある基準まで合わせて入るようになる場合には、神様が感じることを体恤する道が生じるのです。


 皆さんがこのような場に入るためには、どのようにすべきでしようか。心を磨かなければなりません。


  **引用終了**


天聖経では、このみ言に続いて、「霊的体恤の過程」ということで詳しく掲載されています。


夜の神様は「無の暗闇の境地」での正分合作用の一体化の頂点で、真の愛における「ゼロ点基準」に立たれたのです。その神様は「真の愛」を発動され、自らの愛し合う対象として人間を創造されました。その人間に「責任分担」を与え、ともに「天一国」を創建しようとしたことによって、全知全能を超えた「真の愛の世界」を実現しようとされたのです。


つまり、全知全能という権能を備えながら、それを超えた心情の神様として、人類の親となられたのです。


もっと簡単に説明すれば、夜の神様の状態で不足なものがあったと気付かれたので、神様は創造を始めたのです。その気付いたものは、喜びを得るためには最も重要な愛の対象でした。つまり、夜の神様として存在し続けていた段階では、不足だと気付くこともなく、存在すること自体を喜びとして存在していたのです。なぜ、存在自体が喜びになっていたかという感覚は、私たち一人一人が「ゼロ点基準」に立って、神様の心の門と、私の心の門がぴったり合った時に、私自身も体験し体恤することができるのです。その境地に立ってこそ、神様の永遠普遍性や、それを包み込んできた愛の偉大さ尊さも理解できるようになるのです。その事を悟り、真の愛として体恤された「心情の神様」の偉大さ尊さも心で分かり、その神様が親であることの感謝が湧き上がってくるのです。


夜の神様は真の愛によって心の門が開かれ、全知全能の神様を超えた、心情の神様として真の愛を発動されているのです。それが分かるのです。頭で分かるのではなく、心で分かるという状態になるのです。


このことを理解できたうえで四大心情圏を体恤しなければ、私たちは理想世界を目指しながらも、知らず知らずのうちに上下からなる支配構造を作ってしまうのです。




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