夜の神様と真のお父様が一つとなって、今こそ私たちを導いてくれています!
先回記事末部より
「神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。」
神様は、愛の理想世界実現に向けて働く自らの霊を、「昼の神様」と名付け、無の状態であった神様本体を「夜の神様」と名付けたのです。夜の神様の意志に従って、昼の神様はまず時間を創造し、創造の為の第一日目を向かえるのです。
まだ、読者の方々の思考においては、釈然としていないかもしれません。しかし、日毎に記事が進むほどに、お父様のみ言のパズルが組み合わさり、想像もできなかった夜の神様の愛と心情の世界が広がっていくでしょう。
どのような千辛万苦を経て構想理想を立てられたのか、何がヒントになって男女の性別を発想したのか?何の理由から生殖器を構築したのか?知りたくありませんか。
何の為にそれを理解する必要があるかと言えば、真のお父様が願う本当の四大心情圏を知り、体恤するためです。
*****
真のお父様が第一次の公式路程を出発された1945年から7年間で、キリスト教徒がお父様を再臨主として受け入れて侍っていたとしたら、まず最初に「夜の神様と、昼の神様」のみ言を語られたのです。
そこに神様の根本があり、信仰の原点があり、愛と心情の核心があるからです。
再臨主としての摂理の出発の時点で語るべき「夜の神様、昼の神様」のみ言は、創世記の誤訳や誤解釈を正して、神様が選民を通して人類に与えてきた啓示の、決定的核心を伝えるものであったのです。
それが、洗礼ヨハネの使命を持つ者が背反し、キリスト教が再臨主を迫害することによって、語ることのできる基台を失ったのです。キリスト教に代わり、真のお父様は統一教会を立てましたが、「夜の神様、昼の神様」のみ言を本格的に語れる基台が出来たのは、2009年以降になってからです。それまでも、何度か語り始めようとされましたが、語ろうとする度に基台が崩され、サタンの讒訴を受け、語れないままになっていたのです。
「夜の神様、昼の神様」のみ言は、神様の起源を明らかにし、神様と再臨主の関係性を明確にし、再臨主と人類の関係性を明確にするものです。このみ言が意味不明であることは、まだ真のお父様を知らずにいるということになります。
このようなことを書くと、ムッと来る方もおられるでしょう。この時点で、こんなブログ、インチキの塊だと放り出すよりも、こらえて読み進めてみてください。本当に真のお父様を慕い求める者であるなら、お父様が何故に不足な私たちを用いて来たのか、用いざるを得なかったのかを知ってください。
1945年に洗礼ヨハネの使命を担う者が、お父様を再臨主として受け入れ、「夜の神様、昼の神様」のみ言の本質をつかめたならば、洗礼ヨハネとしての使命者が「再臨主が何者であるか」を証ししていたのです。
*****
先回の記事の続きを少しだけ進めましょう。先回記事の締めくくりに、次の文章を記述していました。
「どのような千辛万苦を経て構想理想を立てられたのか、何がヒントになって男女の性別を発想したのか?何の理由から生殖器を構築したのか?知りたくありませんか。」
「何がヒントになって男女の性別を発想したか?」を知っていただくために、手掛かりになる聖句は、やはり創世記第1章第2節です。
新共同訳1987
1:2 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
新改訳1970
1:2 地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。
口語訳1955
1:2 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
とあるプロテスタントの方の私訳(聖書に誤訳があると主張)
1:2 大地はまだ、影も形もなかった。神の息吹は風のように海原を包んでいたが、深い海の底は暗やみに覆われていた。
この第3節を、このブログでは次のように解釈していました。
*****
水や海と表現された存在の、神様からの啓示における真実は、夜の神様の「無の状態」の心情と原力であったということです。その無の状態の心情は、夜の暗闇の状態でした。それで水底の闇であり、深い海の底の闇なのです。その闇の眠り、無の状態から目覚めようとする夜の神様は、対象を求めて思索を始めるのです。神様の霊が、生命が入られたかのごとくに、動き始め働き始めるのです。
夜の神様の存在の根本と言える心情と原力が、生命を誕生させる精子の基でした。
心情とは、神様本体の根本というべきものです。しかし、満ち溢れる心情は、対象が現れなければ「無」の境地でしかないということです。夜の神様が愛する対象を得たいと願った時、構想を探ったその時点から、対象への愛は心情の衝動的爆発を呼び起こしたのです。そして、夜の神様は「無」の状態から、愛の生命を得たことを実感したのです。
**天聖経 真の神様 第一章 神様の本体から引用**
五 法度の中での全知全能である 2.愛のみが絶対基準である
神様自身を存在させる起源とは何ですか。何から生まれたのでしょうか。神様が存在するための起源とは何でしょうか。全知全能ですか。絶対的権限ですか。絶対的権限があれば何をするのですか。一人でいるのに、一人でいる両班(ヤンバン)が絶対的権限があって何をするのですか。誰もいないのに。一人で絶対者になっていれば知識があって何をするのですか。神様の本質が何かという問題が重要な問題です。それが愛です。「ため」になれという愛ではなく、「ため」になろうとする愛です。
夜の神様は、相対する対象を想定することによって、愛が自らに新たな生命を与えてくれたことを実感しました。この時、夜の神様は初めて、愛によって生まれた・・・、愛から生まれたと実感したのです。
*****
夜の神様は愛が自らに、新たな生命を与えてくれたと実感すると同時に、神様の心情はどこに向かったしょうか。初めて自分の抱える孤独が迫り来て、自らを愛で包み込むのです。聖書に誤訳があると主張するプロテスタントの方の私訳には、このことが表現されているのです。
「神の息吹は風のように海原を包んでいたが、深い海の底は暗やみに覆われていた。」
夜の神様は、構想として立てた愛する対象の人間にも、自らが体験した愛から生まれた実感を、そのまま相続させたいと願いました。夜の神様の根幹であり根本であり本質である心情と、その衝動力を、人間に相続させるためには、同じ体験をさせるしかないのです。ですから第2節の聖句を正しく紐解けば、もう一つの比喩が見えてくるのです。もう一つの比喩とは、「胎児を宿した母の愛」を比喩して綴られた言葉であるということです。
母の胎内で羊水に保護される胎児は、暗闇の中にあります。しかし、それは母の愛に包まれた暗闇であり、無の境地なのです。夜の神様が法則性で存在しているように、母の心臓の鼓動が規則正しく響くその暗闇は、愛と心情で充満しているのです。
お父様が語られた「夜の神様、昼の神様」は、創世記の聖句と共鳴しながら、恐ろしいほど深い深い夜の神様の真の愛の境地まで誘ってくれるのです。
お父様の心情に迫りたい方はクリックを
↓ ↓ ↓