愛と心情-真のお父様が今伝えたいこと

神様の心情を訪ねて・・・。

母国日本の歴史は、光(和)の聖徳太子と影(恨)の能除太子によるアベルカインで導かれて来た!

先回記事重要部分


そこで第15代応神天皇から五世を経た孫と伝えられる男大迹(おおど)尊が見出され、仁賢天皇の長女である手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后として継体天皇となるのです。


あまりにも血縁が遠いので、まったく別の朝廷が立てられたと見る歴史家もいるほどなのです。しかし、神様の摂理からすれば、許しの愛を実感として治世に顕した仁賢天皇の、母性の血縁からまったく新しい出発をしたということです。その継体天皇の、というよりは手白香皇女の皇太子が即位し欽明天皇となります。この欽明天皇から用明天皇、そして聖徳太子へと三代にわたって、日本民族の女性に向けて母性愛の教えを浸透させるための神様の摂理的な力が及び始めるのです。


ですから、仁賢天皇の母性の血縁からまったく新しい出発をしたことから、欽明天皇の血筋は、蕩減復帰のために立つアベルの血統として、神様からの使命を託されたということになります。私はここにこそ、真のお父様が「日本の情は忠孝の源」と証しして下さった原点があると見ているのです。ですから、サタンからすれば、この一族の血統と心情を絶やそうとして攻撃してくるようになるのです。


天皇の血統は、神様とサタンとの蕩減復帰上の抗争の狭間にあったということです。


  *****


2011年1月の朝の訓読会で、真のお父様は「日本の歴史を紐解きなさい」と語りました。


そのお父様は1992年には次のみ言を語っています。


『「一本人」は垂直になるというのです。このような立場で、大東亜共栄圏を主張すれば良いのですが、「二本人」でいてどうするのかということです。これは深刻な問題です。これを解決できなかったので、めちゃくちゃになっているのです。』(神様の摂理と日本、1992・1・17)


キリスト教徒西郷隆盛と、キリスト教を受け入れていた勝海舟によって、江戸城無血開城が為され、明治維新へと進んでいきます。明治維新以降の国造りの闘いは、神様とサタンとの抗争から見たならば、一本人となった西郷隆盛や勝海舟、聖書の精神を取り入れていた坂本龍馬(暗殺されていますが)たちと、二本人のままのその他の為政者たちとの、神様の理想とした大東亜共栄圏の起点となる一本人による国家を造るためのものだったのです。


実は日本の歴史は、神様の視点から見れば、雑教国家に一本人を立てようとして来た歴史だったのです。雑教国家と言われる日本においても、神の業が現れるときに働く蕩減復帰原理は同じです。


イエス・キリストの先祖であるヤコブが、イスラエル(勝利者)という称号を神様によって与えられたのは、キリスト教・ユダヤ教・イスラム教でともに信仰の祖と仰がれるアブラハムの信仰を受け継ぎ、その息子イサクの信仰を受け継ぎ、その上に立って神様とサタンの試練に勝利したからです。


もしも、聖徳太子がその使命を勝利していたならば、神道がありながら仏教を拒まなかった欽明天皇の志しを受け、仏教を篤く信仰した用明天皇・そして和合の教えとして熟成させた聖徳太子、その息子・山背皇子は、アブラハム・イサク・ヤコブと同じ立場に立っていたはずなのです。ヤコブの父・イサクがイスラエルの称号に並び立ったように、聖徳太子は神の啓示により、「大和」という称号を新たにもらったに違いありません。


ヤコブがイスラエル(勝利者)という称号を神様から授かる過程において、歴史的な蕩減を残してしまう出来事がありました。アブラハムの妻サラが子供が生まれなかったがゆえに、女奴隷であったハガルを妾として入れて、イシマエルを授かったのです。この後に、サラがイサクを産むと、アブラハムとサラはハガルとイシマエルを荒野に追いやってしまいました。イサクの子ヤコブから産み増えたイスラエル民族と、イシマエルから産み増えたアラブ民族は、歴史的な恩讐関係となってしまいました。


これと同様のアベルカインの恩讐を産む出来事が、日本の信仰の祖三代の欽明天皇・用明天皇・聖徳太子においても起こっているのです。


聖徳太子の父・用明天皇は三十一代天皇であり、三十二代目の天皇には用明天皇の弟である崇峻天皇が即位しました。崇峻天皇は、臣下でありながら当時最大の実力者である蘇我馬子と対立を深め、この馬子の策略で暗殺されてしまうのです。当然、皇位を継ぐ可能性のある崇峻天皇の息子・蜂子皇子も殺されかねない立場となりました。聖徳太子は蜂子皇子をかくまい、飛鳥の外へと逃がします。その際、聖徳太子は皇子に仏門の修業を勧めるのです。


仏門に入った皇子は「弘海」と名乗り、諸国を旅します。その旅の果て、東北地方の現在の山形県に来たとき、三本足の大ガラス(八咫烏やたがらす)が現われ皇子を導き、彼はそこで観世音菩薩を発見しました。皇子はそこを修業の地と定め、カラスにちなんで羽黒山と名付けました。厳しい修業により霊力を持つに至り、能(よ)く人の苦を除く、ということで能除太子とあがめられるようになったのです。


伝説ではおおかたそのように表現されていますが、当時、山形の酒田は都と結ばれた港を持ち、繁栄し、東北では最も基盤のある地でした。そこに聖徳太子の意図もあり、太子の側近の秦一族(八咫烏と象徴される)をともなって国造りの意図を持って入ってきたと言えるのです。


歴史の表舞台で活躍した聖徳太子を「光の太子」とすれば、裏舞台で秘められた力を発揮した能除太子を「影の太子」と言うことができます。影の太子・蜂子皇子による出羽三山神社の開祖の年は、光の太子・聖徳太子が摂政に任じられた年と同じ紀元五九三年です。


本来はならば、天皇に近かったのは崇峻天皇の息子・蜂子皇子です。霊力の高い蜂子皇子が天皇となり、知的企画力にたけた聖徳太子(厩戸皇子)が教理的にサポートし、和の国を造り上げるのが理想ではあったのです。しかし、蘇我馬子が崇俊天皇を暗殺した時点で崩れ去り、国造りの道のりは紆余曲折の闘いを展開するようになりました。聖徳太子は日本において、和の象徴であり光の象徴です。そして、蜂子皇子は恨みの象徴であり影の象徴で、アベルカインの蕩減復帰摂理を霊的に担うようになるのです。


私は2003年8月に、影の太子・蜂子皇子開祖の出羽三山の月山で、神様からの啓示を受けました。神様が創造の御業に着手する前の、夜の神様として立った一人でいることの悲しみの心情が注がれてきたのです。


それ以降、神様は私に、日本史に秘められた本質中の本質の歴史観を教えてくれました。アベルカインの蕩減復帰摂理によって、雑教国家に一本人を立てようとして来た、日本の歴史に秘められた神とサタンの闘いの過程を教えてくれたのです。



お父様の心情に迫りたい方はクリックを
↓ ↓ ↓

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 家庭連合へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 家庭平和協会へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ サンクチュアリ教会へ
にほんブログ村

×

非ログインユーザーとして返信する