愛と心情-真のお父様が今伝えたいこと

神様の心情を訪ねて・・・。

二千年の時を越えて、イエス様が語りたかった三位一体説の核心について触れて行きます!

先回記事重要部分より


三位一体説の本質的核心を理解し、体恤している人物は誰かと言えば、三位一体の実体であるイエス様以外にはありません。同様に再臨主である真のお父様にしか、三位一体の本質的核心は語ることが出来ない事なのです。


イエス様が聖婚されて、真の家庭を完成していれば、三位一体については明確な教義の核心理論・本質的思想として明確にすることが出来るはずでした。その三位一体の核心については、イエス様自身で語るものでは無く、アベルの位置に立って、「メシヤを迎える為の基台」を造成する使命を持つ、洗礼ヨハネだったのです。洗礼ヨハネが、イエス・キリストに対して絶対信仰・絶対愛・絶対服従の基準を立て、神様とイエス様と聖霊による三位一体の核心的実相を学び、「キリストの体を着た神様」を発見しなければならなかったのです。その過程を経て、洗礼ヨハネがイスラエル民族に対して、イエス・キリストの三位一体となった実相を証ししていれば、神の国創建に向けて踏み出すことが出来ていたのです。


その洗礼ヨハネがイエス様に対して背信し、十二弟子が裏切り、イエス様が十字架に架けられることによって、イエス様自身が三位一体の真実と真理を地上に表すことが出来なくなってしまったのです。


  *****


いよいよここで、イエス様と真のお父様しか、実感を持った理論として語ることのできない三位一体説について明らかにするべきでしょう。その本質的核心こそ、真のお父様が語られた「夜の神様、昼の神様」の中にあるのです。


三位一体説はこれまでのキリスト教において、カトリック教会・プロテスタント・正教会・東方諸教会といった大半の教派が共有しているものです。まず、どのように解釈されているのか触れてみましょう。「家庭と子育て-カトリック生活-」というホームページの、「尾崎明夫神父の『カトリックの教え』」から「三位一体」についての説明を引用します。とても分かりやすいです。


  **引用開始**


ここ数回にわたってイエス・キリストが人間であると同時に真の神であったという点を見てきました。これがキリスト教の信仰の核心です。イエスが神であると信じる最大の理由が復活であって、パウロは「キリストが復活しなかったのなら、私たちの宣教は無駄であるし、あなた方の信仰も無駄です」(コリント二、15、14)とまで言っています。


さて、ここで新たな問題が出てきます。つまり、もしイエスが神ならば、イエスが「天の御父」と呼ばれた神はどうなるのか。また御父とイエスが弟子たちにお送りになると約束された聖霊はどうなのか。神はお三方おられるのか、という問題です。


イエス自身、「イスラエルよ聞け。われわれの主なる神は唯一である」と神が唯一であるというユダヤ教の信仰を断言されました(マルコ12、29)。しかし、しばしば自分が天の御父の子であるとも主張しています。確かに「神の子」という身分は人間にもあてはまることで、イエスも弟子たちに、祈るときは神に対して「天におられる私たちの神よ」と呼びかけるように薦められました。しかし、イエスは自分が神の子であることと、使徒たちがそうであることとは本質的に異なることを教えられました。「私の父、あなた方の父」と区別されたのはそのためです(ヨハネ20、17)。また、父と自分と並んで聖霊(霊、父の霊、真理の霊、慰め主、弁護者などとも呼ばれます)も別の神であると示されました(ヨハネ14~16章参照)。


それで、教会は最初から神は唯一であると同時に、父と子と聖霊をそれぞれ神として信じたのです(聖パウロ、ペトロ、ヨハネの手紙を参照)。しかし、単純に考えるなら、父が神、子が神、聖霊が神ならば、神は三方おられることになるわけで、このことについて誤った教えが出てくるのは避けられませんでした。


その異端の中で最も影響力を持ったのが、3世紀末に出たアリウスという司祭の説です。彼によれば、「イエスは被造物だが、そのすばらしい行いのために神があたかも神の子のようにされた」というのです。その根拠として、聖書に「その日、その時を知る者は一人もいない。天にいる使いも子も知らぬ。父だけは知りたもう」(マルコ12、32)とか、「父は私よりも偉大なお方」(ヨハネ14、28)という個所があるで、と主張しました。アリウスの説なら、神は御父だけで、神の唯一性を守るのに何の問題もありません。



しかし、「このアリウスの教えはどこか変や。教会が最初から教えてきたことと違う」と気づいた人たちが、聖書には父と子が同じであると示す個所も沢山あると言って、異議を唱えました。時はローマ帝国の迫害が終わったばかりのころで、教会の中で分裂があることを嫌った皇帝はこの問題を議論するために公会議の開催を示唆。そこで325年、二ケーアという場所に全世界から318人の教父が集まり、このアリウスの教えを排斥し、次の信経を残しました。「我々は信ず、全能の父、すべての見えるものと見えないものの創造主である神を。神の子、我々の主イエス・キリスト、すなわち父の本性より神のひとり子として生まれ、・・・父と同一実体である。・・。また聖霊を(信ず)」と。


この信経で、大切な言葉は、イエスが「父と同一実体である」という言葉です。では、実体とは何か。実体とは「それは何ですか」と聞かれたときに答える言葉です。たとえば、「寅さんは何か。博(ひろし)は何か」と聞かれれば「二人ともヒトだ」と答えます。これは寅さんと博がヒトの実体を持っているということなのです。しかし、寅と博は、同一実体ではありません。ともにヒトの実体を持っていますが、その二つは異なる実体です。でなければ、寅は博だ、という奇妙なことになってしまいます。ところが、神様の場合、父とイエスは同じ実体なのです。では、父はイエスと同じなのかと言うと、違うのです。それを表すために、「子は父から生まれた」と言っているのです。では、父と子の違いを表すものは何でしょうか。


父と子の違いを表すために、キリスト教の神学者たちは「ペルソナ」という概念を発明しました。「ペルソナ」とはもともとギリシアの演劇で使った「お面」のことでした。役者が弁慶のお面をつければ弁慶になるが、義経のお面をつければ義経になる。というわけで、ペルソナとは、「それが誰か」を表すものという意味を与えられました。この言葉を使って、神学者たちは、「父と子は、実体は同じだが、ペルソナは違う」と説明したのです。言い換えれば、神様に向かって「あなたは何ですか」と尋ねると、「我は神なり」という答えしか返ってきませんが、「あなたは誰ですか」と尋ねると、「我は父なり」「我は子なり」「我は聖霊なり」の三種の答えが返ってくるというわけです。


ここで言っておかねばならないことは、この教えは「人間の頭では理解ができないが、神が教えられたので信じる真理」、つまり秘儀(神秘)であるということです。キリスト教には、秘儀というものがいくつかあるのですが、三位一体はその中でも最大の秘儀です。これは神様がご自分の内側の生活をお教えくださったものと言えるでしょう。ちょうど、私たちが特に親しくなった友達に自分の家族を紹介するのに似ていませんか。そう考えると、私たちは感謝をもって、父、子、聖霊のそれぞれのペルソナに話しかけるのは当然のことと思われるでしょう。


また、三位一体は、神が孤独な存在でないことも教えてくれます。唯一の神は自己を無限に愛するのですが、自分で自分を無限に愛する何かエゴイストに見える神ではなく、異なる三つのペルソナ、父と子と聖霊の互いの愛なのです。人間の家族の愛は、その神の愛を反映しているとも考えられます。


  **引用終了**


ここで三位一体の結論のように、次の内容が説明されています。


【この教えは「人間の頭では理解ができないが、神が教えられたので信じる真理」、つまり秘儀(神秘)であるということです。キリスト教には、秘儀というものがいくつかあるのですが、三位一体はその中でも最大の秘儀です。】


喩えを使いながら、分かりやすく説明していたかと思ったら、人間の頭では理解できない秘儀(神秘)だというのです。何故でしょうか?神様が教えたとありますが、結局、人間の頭で考えたのが三位一体説です。


イエス様は本質的核心を何も語れずに、十字架に架けられてしまいました。なぜ語れなかったかと言えば、生きておられるうちに、信じる者たちが「メシヤを迎える為の基台」を作れなかったので、イエス様はメシヤの位置に立てずに語る条件を握れずに終わってしまったということです。


イエス様御自身が、三位一体説について語れる条件を握ったならば、明確な解釈を地上に残せたはずでした。秘儀などと言って片づけられるものでは無いのです。「三位一体はその中でも最大の秘儀です。」と書かれてあるほどに、最も重要な本質的核心として、秘儀などであってはならないのです。


それは、再臨主である真のお父様においても同様です。真のお父様を再臨主として立てることのできる「メシヤを迎える為の基台」を作らなければ、真のお父様は再臨主としての本質的核心について触れることが出来ないのです。その「メシヤを迎える為の基台」とは、真の父母様の位置を確立するための「メシヤの為の基台」とは違うものなのです。


三位一体説を明確にする歴史的フィナーレとしてのみ言こそ、「夜の神様、昼の神様」のみ言です。1997年から1998年にかけて、このみ言をお父様は語り始めようとされました。1993年から日本女性幹部特別修練会が行われ、1995年には男性修練会が開催され、そこで四大心情圏と氏族メシヤのみ言が語られました。真のお父様自らが講師として立ち、直接にこのみ言を語られたのは、条件付き祝福家庭であった食口たちが、四大心情圏による本然の祝福家庭を成就し、氏族メシヤとして拡大して行くことを願ったが故でした。


その氏族メシヤの拡大の過程で、食口たちによる本然のアベルカイン一体化で築き上げる「メシヤ(第四次アダム)を迎える為の基台」が立てば、真のお父様は「夜の神様、昼の神様」を最後まで語ることが出来たのです。ところが、条件付き祝福家庭(天使長家庭)から基準を上げて、本然の祝福家庭となることができませんでした。出来ないどころか、36家庭の洪性杓(ホン・ソンピョ)と、その妻・柳吉子(ユ・ギルチャ)が孝進様の妻であった洪蘭淑を立てて、真の家庭とお父様に対して反逆の狼煙を上げたのです。


その出来事を象徴として、条件付き祝福家庭から本然の祝福家庭となる基準は崩れ去りました。真のお父様は、四大心情圏のみ言も、「夜の神様、昼の神様」のみ言も、いったん封印せざるを得なくなったのです。


私たち祝福家庭は、真のお父様を第四次アダムとして迎える基台としての本然のカインアベルの一体化ができなかったのです。そこで、1999年10月15日に、「皆裏切る」というみ言を語らざるを得なくなったのです。


しかし、それから十年ほどの歳月を経て、2008年から再び「夜の神様、昼の神様」のみ言を語り始められました。真のお父様が語れるだけの条件を握ったのです。なぜ、握ることが出来たのかは、三位一体説の本質的核心を説明してからにしましょう。次回は「夜の神様、昼の神様」のみ言から理解することのできる、三位一体説の説明に入ります。



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